第22話
「…………ま」
低く穏やかな声に呼びかけられている。
「……さま」
耳に心地よく、いつまでも聞いていたくなる声だ。
「埜石様」
はっきりと名を呼ぶ声が鼓膜を打ち、ようやく深い眠りから覚醒したタビトは、覗き込んでくる顔をぼんやりと見上げた。
寝ぼけたまま手のひらで顔を拭った次の瞬間、声の主を認識した彼は目を剥いて飛び起きる。
なんと、ベッドの脇にチカルが立っているではないか。
「お電話です」
彼女はいつもの無表情で、ナイトテーブルの上で鳴動しているスマホを手のひらで示した。
「え?あ、――……」
「無断入室をお許しください。お返事がなかったものですから」
タビトは状況が吞み込めず困惑するばかりだ。そんな彼を正面からじっと見つめ、ほとんど抑揚のない機械的な声で告げる。
「先ほどエントランスでホズミ様にお会いしまして……電話に出るよう伝えてほしいとの伝言をたまわりました」
静かに一礼すると、タビトの返事を待たずに踵を返す。
彼は去っていくチカルとスマホとを交互に忙しく見て、ベッドから転がり出た。
(――しまった!)
クローゼットに駆け寄って服をあさりながら電話に出る。
「ごめんホズミさん!寝坊した!」
開口一番叫ぶように言うと、受話口から笑い声が飛び込んできた。
「やっぱり寝坊か」
声の主はアキラだ。驚いてスマホの画面を覗き込み、ホズミからの着信であることを確認する。それから不満そうに唇を尖らせて言った。
「なんでアキラが出るんだよ」
「ホズミさんは運転中。もう現場に向かってるよ」
「ええ……そんなぁ……」
「だって迎えの時間を15分過ぎても降りてこないんだもん」
寝室から顔を出しリビングの時計を見る。14時すぎだ。彼は苦いものを食べたような顔でクローゼット前に戻り適当に服を引っ張り出してはベッドに投げる。
「現場の住所教えて!タクシーで行く!」
「俺たちを降ろしたら、ホズミさんがまた迎えに行ってくれるってさ。その調子だとまだ食事もしてないんでしょ?取り合えずなにか食べて待ってな」
あと1時間くらいは余裕あるから、とアキラは続けた。タビトは謝罪の言葉を口にしようとしたが、通話は一方的に切られてしまう。冷や汗でべたついているこめかみからスマホを離すと、彼はがっくりと肩を落とした。
「やらかした……」
独り言ちてふらふらと寝室を出る。ちょうどドライルームから出てきたチカルと鉢合わせ、彼は耳まで真っ赤になりながら頭を掻いた。
「あの……電話、すみませんでした。寝坊しちゃって」
「すぐにお出かけですか?」
笑うでもあきれるでもなく神妙な口調で問うてきた彼女に、しどろもどろになりながら答える。
「いや、なんか……先に別のメンバーを送り届けてからまた迎えに来てくれるみたいです。1時間後くらいになるって……」
「でしたら……」彼女は考え込むように眉根を寄せた。それから視線を上げ、「ご準備されているあいだにお食事をご用意しましょうか?」
驚いた彼は慌てて首を横に振る。
「卵を焼いたりサラダを用意することくらいしかできませんが……それでもよろしければ、お気兼ねなくお申し付けください」
射貫くような力強さを湛える瞳で見つめ上げられて、彼は次の言葉を喉に詰まらせる。用意してもらうのは気が引けたが、断る理由はなにひとつない。
視線を泳がせ逡巡していたが、やがて彼は遠慮がちに言った。
「――たしか冷蔵庫にオレンジが残ってたと思うんで……それをカットしてもらっていいですか?」
「他にはなにをご用意しましょう?」
「じゃあ、えと……サラダも……あの、袋タイプのものがあるのでそれを皿にざざーっと出してもらえれば」
身振り手振りで言う彼に頷き、
「かしこまりました」
言うが早いか、チカルはキッチンに入ってさっそく準備を始めた。
そわそわと落ち着かない様子でリビングを出たタビトは、洗面台の前に立つ。鏡に映っている顔はほんのりと赤い。戸惑いの表情で見つめ返してくる自分から視線を外し、大きく溜息をついた。
(調子が狂う……)
しかし不愉快ではない。彼はむしろ、この状況に喜びすら感じていた。
彼女が自分のために食事を用意してくれている――信じられない思いであった。彼は半ば放心状態で歯を磨き、念入りに顔を洗う。
リビングに戻ってくると、後ろ手にドアを閉めながらキッチンの方に目をやる。彼女が危なっかしい手つきでオレンジを切り分けているのが見えた。
天井からの灯りを受けたペティナイフがまぶしくひらめく。彼はそのまま立ち竦み、彼女の手元で揺れ動く小さな光を見るともなしに見た。すこし苦みのあるフレッシュな香りが、鼻先にまで漂ってくる。
彼の視線に気づいたチカルは能面のような顔を上げ、食卓を手で示す。
「どうぞ、お席でお待ちください」
テーブルにはすでにプレースマットが敷かれ、磨かれたフォークが輝いている。タビトはまるで他人の家に来たようなぎこちなさで席に着いた。そのタイミングでチカルが再び声を掛ける。
「お飲み物はいかがしましょう。コーヒー、紅茶、ミルクとありますが」
「あ……っと、じゃあ、ミルクでお願いします」
濡れた前髪が目元に垂れてきたのを掻き上げて、視界の隅でぱたぱたと動いているチカルに意識をやる。
「お待たせしました」
オレンジが盛り付けられたプレートとサラダが運ばれてきた。続いてミルクの入ったグラス……は置かれる寸前でぴたりと止まる。
「……あたためますか?」
低く問われ、瞳だけを上げてチカルを見る。感情の薄い顔――冴え冴えと輝くその双眸から注がれる眼差しを受けながら、首をゆっくりと横に振った。その反応を見た彼女は、静かにコップを置く。
「いただきます」
彼はしっかりと両手を合わせて言うと、フォークを手に取った。
切り分けられたオレンジは大きさがばらばらだ。完璧に見える彼女にも不器用なところがあるらしい。
口の端に笑みが浮かびそうになるのを堪えながらサラダを頬張った。と、そこでドレッシングがかかっていないことに気づく。
おもむろに席を立ち、キッチンに回り込んだタビトはまず野菜室を開いた。レモンがあることを確認すると、次に戸棚を開けてオリーブオイルの瓶を揺らし中身を覗き込む。あとは胡椒と酢があれば――と思ったところで、ちょうど酢の方を切らしていることを思い出した。
せっかく彼女が用意してくれたのだ。お気に入りのドレッシングで食べたかったのだが、致し方ない。彼は小さく溜息をついて、冷蔵庫の中からノンオイルドレッシングを取り出す。
離席に気づき、タビトの動きを目で追っていたチカルは冷蔵庫から取り出されたものを見るなり呼吸を詰めた。抱えていたシーツ類をソファに投げ出したかと思うと、彼の元に駆け寄る。
勢いよく背中に迫る足音に驚いて振り向きかけたタビトに、声が矢のように飛んできた。
「気が回らず申し訳ありません」
見れば、目の前のチカルが深々と頭を垂れている。
「え?……これのことですか?」
ドレッシングをかざすと、チカルはその顔にわずかな焦燥を滲ませ頷いた。
「なにか他に足りないものはございませんか」
真剣な顔で問うてくるので彼は困ったように微笑み、
「大丈夫です。もしなにかあれば自分で用意しますから」
きっぱりとそう言う。
チカルはわずかに目を瞠った。黙り込んでしまったその様子を目の当たりにしたとたん、タビトは不安そうな顔になる。
「――あの……俺、なにか変なこと言いましたか?」
硬い声で訊ねると、我に返ったチカルは胸の前で手をきつく握りしめ、首をゆるりと横に振った。なにか答えるべきだと思ったが、言葉にならない。




