14
「伯母様。参りました」
伯母ユフィアから危急の知らせがある、と。眠っていたティーリが母の側近の侍女に起こされたのは、まだ薄暗い夜明け前だった。
彼女に理由も告げられず、けれど言われるままに手早く洗顔と防寒対策だけを済ませ、侍女に付き添われて自室を発った。
夜着から着替えたり、食事をとる暇すらなく、である。
こんなことは初めてだった。けれどそれほど重要な、急ぎの用事なのだろう。
普段自分に付いている使用人の青年ではなく、母の侍女が伝言を持ってきた事からもそれはうかがえた。
だから城内の一画、小さな棟一つを割り振られた伯母の住まいへも、躊躇いこそすれティーリはまっすぐに赴いた。
カヤがユフィアに引き取られてから、つまりはここ一年は足を向けていなかったそこは、幼い頃はよく訪れた場所である。
見覚えのある道筋に迷う事はなかった。そしてたどり着いた先の部屋の扉を侍女が叩いて来訪を告げ知らせればすぐに、彼らは室内に通された。
「ティーリ、久しぶりね。急だったけれど、不調そうじゃなくてよかった」
「……はい。伯母様もお元気――ではなさそう、ですね」
「そうね。元気では、ないわね」
暖炉には魔法火が灯っており、暖かい。
ティーリたちが部屋に入ってくるとともに、炉辺の長椅子に座っていたユフィアは、彼らの方を向いた。
けれど目元は赤く、甥へと微笑んだ表情も、どこか悲しげなものだった。
彼女の傍らにはカヤが隠れるようにして座っていたが、ティーリは彼女にはちらりと視線を向けただけですぐに逸らす。
以前父から諭された言葉も思い出したし、何よりユフィアは弱っているように見える。
そんな伯母の前で、必要以上にカヤと関わるべきではないと思ったのだ。ティーリにとってカヤへの接し方は、攻撃的になる以外は慣れない事だから。
それにしても、ユフィアの様子は常ならないほどに妙である。
早朝だからか彼女も、またその隣のカヤも夜着に裾の長い上着を重ねているだけだし、髪もきちんとは整えられていない。
それは自分もそうであるのだが、いくら近しい血縁であるとはいえ、このような礼を欠いた格好で集まるなど。
不思議に思ったティーリだったが、すぐにユフィアから「そちらの椅子にかけなさい」と示されたので、思案の時は続かなかった。
「ティーリも、カヤも。本当ならミレイア様が伝えるべきだけれど、ごめんなさい。あの方には今時間も余裕もないの」
「母様が、ですか?」
少年が椅子に浅く腰を下ろし、彼に付き添ってきた侍女が壁際に控えるのを確認すると、ユフィアが弱弱しくはあったが口を開く。
唐突に出てきた母の名前にティーリが首をかしげれば、ユフィアは「そうよ」と頷いた。
「ミレイア様は指揮も執って、指示も、出さなければいけないから」
そうユフィアは零すと、一呼吸だけおいた。けれどその後は凛と背筋を伸ばし、重々しく子供たちへ続けた。
「序列四位、エディス・ファーレンが身罷りました」
その一言に、しんと静寂が降り立つ。
一瞬彼女が何を言ったのか理解できず、ティーリがゆっくりと瞬く間に、ユフィアは言葉を繋げた。
「あの子が、いえ。エディスが、メイキアとの国境で起こっている争いを平らげる為に、出陣していたのは知っているわね?」
メイキア。隣国の名を知らぬ者は、さすがにこの場にはいない。
この国と彼の国では今、南西の平原の国境線上で紛争が起こっている。
場所が場所なだけに慎重に事にあたらなければならないからと、確かに魔術師領軍は王命の下、長の夫であるエディスに率いられて出陣していた。
それはティーリも父と最後にあった日、エディス自身から聞いていたし、カヤも学舎での話題の一つとして知っていた。
けれど紛争はそこまで大規模な物ではなかったはずだ。一軍の長が死ぬ、など。
「どうして」
「三日前に、そこで争いの最中に。――奇襲があって、背後から術矢で射られたそうよ」
ぽつりと零したティーリに、ユフィアは淡々と言った。
「昨夜、ミレイア様に宛てられた黒文の報せを見せていただいたわ。長様は、日が昇るまでにあなたたちにすべて伝えなさいと」
言いながら、彼女の目元が潤んでくる。
危急の報せは一般に、黒色の文でもたらされる。おそらく従軍していた一族の誰かが、戦地から長へと送ったのだろう。
そしてそれが、黒文を受け取った長ミレイアからユフィアへ。ユフィアから今、ティーリとカヤに。
だからか。だから、こんな時間に、大切な用事が、と。
そもそもエディスが普段常駐している王都から、魔術師領に戻ってきたのは王命の一環で。それは出陣の準備と最後の報告のため、で。
……符号は、可能性は、低いながらもあったのだ。
頻繁に王都から北の反乱の鎮圧へ、南の紛争の調停へと。戦闘を得意とはしないものの、地位ゆえに戦場へ多く赴いていたエディスの、死の可能性は。
そう、どこか他人事のように父の死を受け止めたティーリは、瞳を見開いたまま無意識にこぶしを固く握った。
どうして。家族を悲しませる事は許さない、なんて。あの日言ったのは父であったはずだ。だというのに、どうして。
ユフィアの隣で、カヤが「死んじゃ、亡くなったって、えでぃすさん」と、混乱気味に養母に問いかける。
「逝って、しまったのよ。エディスも」
夫を亡くしてから二年もたっていないというのに、今度は年子の弟を亡くしたユフィアの声は、あまりにも痛ましい。
ティーリはそれを意識の端に納めながら「とうさま」と、呆然と細く呟いた。
けれどまるで彼自身が凍ってしまったかのように、その感情は表には現れない。
「今から、服喪が始まるわ。衣食の形態が違うし、忙しく、騒がしくなるから。あなたたちはエディスが、エディスの体が、帰ってきて。そうして葬儀が終わるまでは私の保護下に、と。長様のご指示よ」
言いながら、とうとうユフィアの頬に雫がつたった。
カヤが縋るように、慰めるように彼女の袖を握る。
唐突すぎる喪失に、受け止めこそすれ、受け入れられないその死に、ティーリはただ戸惑ったように視線を彷徨わせた。或いは、助けを求めるかのように。
そうして彷徨わせた視線が、不意にカヤの眼差しと重なる。
すぐに少女の目線は伏せるように逸らさられたけれど、それでも一瞬。
不思議と、反射的に睨むこともなかった。ただ視線が交わり、今浮かび上がり侵食を続ける、いたみの感情を共有したような感覚に陥った。
苦しさの増す胸中に、ティーリが軽く俯くと、膝の上で握りしめた手が視界に収まる。ゆっくりと両手の感覚を手放せば、自然と固く籠められていた力が抜けた。
遠くで、空気を震わせ音が響いた。
鐘の音だ。陽の上りゆく中、城の塔の鐘の音が、重く悼みの時を、弔いを領都に告げ知らせる。
傍らに控えていたはずのミレイアの侍女は、いつの間にか傍を離れていたらしい。
鐘の音と衣擦れ、そして視界の隅を横切った彼女の衣服の裾にティーリが顔を挙げれば、侍女の手には小さく真白い木の衣装箱が抱えられていた。
「喪服を」
その一言で、この信じがたい喪失に、現実の色がまた塗り重ねられる。
ユフィアも頬の涙を拭い取り、今度こそ毅然と顔を上げ立ち上がった。カヤも沈んだ面持ちのままそれに続く。
「午前の内には、弔旗が上がる手はずだものね」
そうすれば、城内のみならず領都中が忙しくなるだろう。
悲しみに浸る間もなく、きっとカヤやティーリも動かねばなるまい。何しろエディスの、長の死した伴侶の、最も近しい血縁なのだ。服喪と言う慣習は、時に儀式的な行動を必要とする。
ユフィアの言葉に、ティーリもゆっくりと椅子から立ち上がった。
左手でカヤの手を引いたユフィアが、そっとティーリの頭を撫でる。
幼い頃は、よくしてもらっていたその仕草が、ティーリが最後に父と会った時の想い出と重なった。
「ティーリ、カヤ」
そして彼女は子供たちに、そして自分に言い聞かせるようにゆっくりと告げた。
「――着替えなさい。喪が始まるわ」
弔鐘が響きだせば、もう認めきれずに困惑し、立ち止まってはいられない。喪った現実を、受け入れなければならないのだから。