第17章 第7章:頂上の「あきらめ」と日常
フィビアス: 「……ようやく、嵐が過ぎ去りましたね。標高を下げたおかげで、風も穏やかになりました。シュペルク、そんなところで大の字になって寝転んでいると、また魔物に襲われますよ。早く立ちなさい。」
シュペルク: 「……。……無理。動けない。一歩も。……。なぁ、フィビアス。俺たち、結局あの絶壁を『制覇』できなかったんだな。あんなに頑張って、指の皮までなくなって、死ぬ思いをしたのに……結局、手元に残ったのは筋肉痛と、泥だらけの斧だけだ。……。なんだか、無性に虚しいっていうか……。」
フローレン: 「……。虚しい、か。それは君が、岩壁を『倒すべき敵』だと思っていたからじゃないかな、シュペルク。……クライミングを極めた人々が行き着く境地の一つに、『あきらめ』という言葉があるんだよ。」
フィビアス: 「『あきらめ』、ですか。それは戦士や魔法使いにとって、最も忌むべき言葉のように聞こえますが。困難に直面して投げ出すこと、という意味でしょうか?」
フローレン: 「いいえ、本来の『あきらめる』という言葉の語源は、『明らかに極める』……つまり、物事の理を明瞭に見極めるという意味なんだ。 クライマーが巨大な岩山と対峙して感じるのは、自分の無力さだよ。 自然は人間の都合なんてお構いなしに、嵐を吹かせ、岩を崩す。 それに対して怒ったり、絶望したりするのは、まだ自分に何かできるという傲慢さが残っている証拠なんだね。 本当の意味での『あきらめ』に達したクライマーは、ただ、あるがままの自然を受け入れる。……自分がちっぽけな存在であることを認め、その上で、今この瞬間に自分ができる最善のことだけに感謝するようになる。それが彼らの持つ独特の『謙虚さ』の正体だよ。」
シュペルク: 「明らかに、極める……。……。確かに、あの吹雪の中で、俺は『あ、これ、俺がどう頑張っても勝てないやつだ』って思ったんです。 でも不思議と、絶望っていうよりは、なんだかスッとしたんですよね。 俺はただの人間で、岩はただの岩。 その間に立たせてもらってるだけで、実は奇跡みたいなもんなんだなって。 ……。それが、謙虚さ、ですか。」
フィビアス: 「……。なるほど。対象を制圧しようとするのではなく、その巨大なシステムの一部として自分を適合させる。 魔法の深淵においても、世界を支配しようとする者はやがて自滅します。 偉大な魔法使いほど、世界の理に耳を傾け、その流れに自分を乗せる術を知っている。 クライマーの精神構造は、私たちが目指すべき魔法使いの在り方と、驚くほど似通っているのですね。 ……。シュペルク、あなたが少しだけ大人になったように見えるのは、気のせいではなさそうです。」
フローレン: 「ふふ。……。クライマーたちは、壁を降りて日常に戻ると、驚くほど質素で穏やかな生活を送ることが多いんだ。 山野井という男も、普段はとても静かで、腰の低い人だったよ。 極限状態で自分のすべてを使い果たし、死と隣り合わせの『あきらめ』を経験した人間は、日常の何気ない食事や、温かい寝床、そして仲間との何気ない会話に、魔法のような価値を見出すようになるんだ。 ……。シュペルク、君が今感じているその『地面の温かさ』。それは、あの壁を登る前よりも、ずっと深く君の心に届いているはずだよ。」
シュペルク: 「……。……。ああ、そうですね。地面って、こんなに優しかったんだな。 ……。フィビアス、俺、さっきは虚しいなんて言ったけど、やっぱり登ってよかったよ。 あの高さから見た雲海も、指が岩に吸い付くようなあの不思議な感覚も、一生忘れない。 ……。もし次にあの壁に来る時は、もっと、岩と仲良くなれる気がするんです。」
フィビアス: 「……。仲良くなる、ですか。相変わらず表現が稚拙ですが、言いたいことは分かります。 ……。さあ、いつまでも寝ていないで。 荷物をまとめてください。次の町まで歩けば、温かい宿と、あなたが大好きな肉料理が待っています。 それを食べることも、今のあなたにとっては大切な『日常の儀式』なのでしょう?」
シュペルク: 「肉! 肉か! よし、がぜんやる気が出てきた! フローレン様、行きましょう! 俺の筋肉が、タンパク質を求めて叫んでますよ!」
フローレン: 「あはは、シュペルクらしいね。……。でも、それがいいんだよ。 特殊な人格特性や、極限の精神構造。そんな難しい言葉を並べても、最後に行き着くのは『今日も生きていてよかった』という、ありふれた、でも最高に輝かしい実感なんだから。 ……。1000年生きる私にとっても、君たちと過ごすこの一歩一歩が、あの壁を登る一分間と同じくらい、濃密な時間になっているんだよ。」
フィビアス: 「……。フローレン様。たまには、良いことをおっしゃいますね。 ……。ですが、あちらの草むらに隠れているミミック(宝箱の罠)に気を取られて、足を止めるのはやめてください。 日常に戻るなら、その魔法オタクとしての悪い癖も少しは『あきらめて』はいかがですか?」
フローレン: 「……。……。えっ? あそこに宝箱があるの!? ちょっと待って、あれは罠じゃないかもしれないし、すごく珍しい魔導書が……!」
シュペルク: 「また始まったよ……。おいフィビアス、フローレン様の両脇を抱えて運ぶぞ。せっかくの『あきらめ』の境地が台無しだ!」
フィビアス: 「了解しました。シュペルク、しっかり持っていてください。」
フローレン: 「わあぁ、放して! あれはきっと、クライマーの神様が残してくれた秘宝なんだってばー!」
エピローグ
夕闇が迫る街道を、三人の影が歩いていく。 背後にそびえ立つ断崖絶壁は、今はもう、恐ろしい壁ではなく、彼らに大切な何かを教えた静かな師のように、夕日に赤く染まっていた。 人は、なぜ登るのか。 その答えは、彼らが交わす笑い声と、踏みしめる土の音の中に、ひっそりと、しかし確か、に溶け込んでいた。




