088_並び立ちたい、追いつきたい、
他との比較は無意味であるから、そのようには思わない。ただ、過去の自分との比較は、進歩の礎となる可能性が高いので有益ではある。
ただ、その過去と現在との比較、評価が正しくできるのかというと不可能ではある、伝わらない、正確無比に伝わらないからであり、大体の線で判断しなければならないからである、そして、結構その程度でもなんとかなるのか現状ではある。
誤差の範囲と言い切ってしまっても良いならば、実のところずれの有無を気にしなくとも良い、ただどれだけずれているのかということを性格に把握するか観測するか計測しなければ、そしてそれを正しく反映させなければ、これまた意味がなくなってしまうし、実際には不可能である、ここもおおよその範囲でよしとしなければならないところであり、その範囲に収まっているであるかどうかが正しいかどうかもまた、確率で述べられるものでしかない。
統計学的には正しいのではあるが例外がある、とっぴな流れがある、イレギュラーに襲われるか救われるか惑わされるかするわけであり、そこまで読めるかというと、読められるのであるならばすでにあちら側であり、別に読まなくとも因果関係を遡って細工、工作、対処、ができるのがあちら側の普通ではある、こちら側では諦めるしかないというか、向こうでも諦めてはいる。
ずれは必ずあるので比較することは大切でありその行為によって、エネルギーが発生する、であるならば、他者との比較も大事ではあるのか、となるが、意味合いが変わってはくる、比較そのものに意味があるのであり、その結果どちらが優位であるかどうかは、実のところ枝葉末節であるのである、特に問題にならない、資源の質とは関係ないところで争うことになる、強いていうならば、味やら嗜好やらがずれるだけの話である、あちらから眺めるのであるならば、無意味であるということを知った瞬間に諍いの虚しさにそれを止めることになる。
がそれはそれでずれが生まれにくくなるのであちら側が適度に干渉して、そうなるように仕向ける、熱量とか弾みとか押し出すような歪むような、ある種のエネルギーをこちらに伝えるのである。
主体的にあちら側が何かをしているのではなく、そのように見える、見立ての問題であり、うまくいきそうな時に現れる抵抗のようなものの正体とするものである、不幸とか運命の悪戯とか、後で名前をつけてカテゴライズするようなものの原因とするのである。
そのようなものに意味付けをして何になるのかとういうならば、楽しみにはなる娯楽にはなる趣味の範囲で遊べるようなものであり、そして大事なことは、この世の全ては趣味の範囲で回っているのである、意識していないだけの話、意識しているものもいる。
どうしようもないところからどうしようもない力が働いているのであると納得することで諦めが良くなったり、悪くなったりする。
諦めることにも才能が必要なのである。




