070_どんな見た目で、大きさは?
あちら側の生き物の姿はこれは議論する意味がなくなぜならば、変幻自在であるからであり、もしくは一定のものでないからである、むしろ形がないことが常態であり、観測した瞬間に決まるからである。
こちらが見なければ、定まらないのであるのであるならば、こちら側が優位ではなかろうかという意見もあるけれども、その見方をコントロールできないのであるならば、実のところ全く意味がなく、むしろ、その制御をあちら側に委ねてしまいかねないので明確に不利である。
対立の構造にあるのかというのではなく、同格ではなく、捕食者と非捕食者の関係であるからして、どうにかして、相手の目を盗んで一瞬の安寧を確保するのかという話になる、こともなく、おそらくは、双方気にしていないのである。
それほどの知性がないとも言える、これはこち側の話であり、見えない、感知できない、想像でしか描くことができない存在に対して、何もすることができないというか、する意志のようなものすら浮かんでこないのではなかろうかなという、もし浮かんできたのであるならば、大体はそれは妄想として片付けられるものであり、無意味なものになってしまっているからである。
あちら側もこちら側の意志のようなものに頓着をしておらず、いやそれどころか、そういうものがあるのではとう想像すらできていないのではなかろうかなとか、ただそこにあるずれを食べられるだけの存在である、こちらでいうならば、空気とか水とか光とかそのような自然現象のような位置づけであり、そこに意志のようなものが宿っているとは、埒外であるということであるのである。
逆にそれを想像してしまったあちら側の存在があるならば、これは悲劇に近い、なぜならば、対話が可能な存在を単なるエネルギー源として使用しているということに気がついてしまうからであり、そこには倫理観が生まれてしまうからであり、ただそれはすぐにどうしようもないことであると乗り越えられてしまうことにもなるわけであり、実のところあまり悲劇でもなくなってしまうのである。
どうしようもないものであるという諦めがそれこそ時間をおかずに結論づけられてしまうのであり、そういうものであるという納得が瞬時に行われてしまうものであり、忘れられてしまう、意識に登らなくなってしまう、ことになるのである。
受肉する可能性はある、それはこちら側に、その一面が現れるだけの話であり、例えるなら、こちら側で作成している映像作品やら文学作品やら娯楽作品やら、落書きやらのもののようなものであり、気軽に瞬時に現れて、また消えることができるのである。
自らそうであると知らずに来るあちら側の生き物もこれは多い。




