061_作るからある。
自我やら自意識やらは存在しない、けれどもそれがあると思うからそれはその時だけは存在するように振る舞うのである。
幻想を見ているようなものである、妄想である、相手がいるという、勘違い、意識がある自我がある、自分以外に人が存在する、自分が存在する、その双方がそうなのである。
それが大いなるものの一部であるということではない、むしろ全体というものは、総体というものは存在しない、細切れの断片が集まっていて、一塊に見えているだけの、感じているだけの錯覚である。
相互に関係している跳ね回っている、跳躍している、スピンしながら乱反射しているビリヤードの球に似ているのである、平面だけではなく立体的な軌道でそうなっているものをイメージして、さらにそれにもう1軸を加えたようなものである、その運動が全体という幻想を見させているのである。
ではその細かな粒そのものは何であるのか、最小単位であるならばそれそのものは全てではないのかとなるが、その通りである、それは全てであるが、断片でもあるのである、これ以上分けることのできなくなった情報は、限りなく0に近づくのであり、それは同時に全て、つまりは、無限大と等しくなるのである。
おおよそ全てを求めようとするならば、そこには必ず0の概念が襲いかかってくるのである、そもそも全てというものは何であるのかという定義が揺らいでくるのである。
全てとは何か?それは0である。という乱暴な結論ができていくわけである。
どこにでも常にみっしりと注ぎ込まれてあるということは、どこにもないということである。差異がないということである、つまりは0と等いということになる、この思考は前述している覚えがある。
それは時間の経過で変化するものである、場合もある、そうでない場合もある、ただ無限の時間があるのであるならば、それは全く時間がないということとも同じになるのであり、時間そものは存在しないのではないかというあるのにないという矛盾めいた話にもなる。
それでは時間は有限であるのかという問いに答えなければならなくなる、無論無限であるからこそ全くないのである。
それは一つのパラメタに過ぎず、無限も0も当てはめることができるのである、そしてそれに干渉できるものが、あちら側にいるということなのである。




