053_彼方に行きたいのではなく、
彼方に生きたいのではなく、気がついたら達している、届いている、来てしまっている、落ちている、零落している、ということである。
上と下という関係性ではなくただただ性質が違うだけであり、彼方は、パラメタが多いという不自由があり、こちらは、それがわずかであるという救いがある、その過多は差別にはならない、ただの区別である。
少ないからということで卑屈になることもなく、多いということで尊大になることもない、どちらかになってしまうかそのどちらかで留まるのか、停滞することが罪であるのか、と、言うならば誰が裁くのであろうかと言う問題が発生するわけではある、もちろん誰にも何にも裁くことはできない、それはただの現象であり、結果に過ぎない。
それでも感情を揺さぶられるのあるのは、それもまた誰も止めることができないものであるからであり、ある種の諦めの結果でしかない、それが要因になるのではなく、結果であり、果ての先にあるものでしかない。
大切ではなく、ただ、大切に思うことを止めることもできず、逆に不遜に、ぞんざいに扱われることもまた止めることはできない、その感情や思考は、そもそも人格に自由にできるものではない、基本も応用も不自由なのである。
どうすれば良いのかと言う思考すらも他動的である、自動的と言っても良い、古き良き時代の不気味な泡に似ているという人もいる、あれは良いイメージではある、わかりやすい感覚ではある、正確ではなく、正確ではないからこそ面白いと言う部類のものではある。
わからないと言うことが楽しいと言うことである、不可思議が、未知が、心を踊らせる、この気持ちもまた自由にはならない、趣味の範疇ではあるし、そこに至る道筋は大変運に左右されるものである、不幸なことに。
幸運でもある。そこにたどり着いたがゆえに苦悩する人格が現れることもあるのであるから。受け止め方次第、見立て次第ではあるが、それが可能かどうかも、確率に左右される、不確なものでしかない、そこを切り捨てて、諦めて、客観視できるようになることが、幸せにつながるのかどうかは、時と場合によるのである。
意味はないのではないかと言うならば、それは無くて当たり前のものである、価値はないのかと言うならば、等く全て無価値ではある。
等く全てに意味と価値がないということは、等く全てに、意味と価値があると言うことである。全部が無いと言うことは、全部があると言うことに等い。
もちろん妄想である、ただ信じると、少し幸せになれるような気がする、と言う人格が存在するかもしれない、と言う話である。
私は幸せである。




