003_言っても分からない。
同じ言葉は話せるけれども通じない。と言うレベルでもない。
必ず伝わらないと言うことである。
なぜならば思考の完全な言語化はあり得ないからであり、どうしても情報が抜け落ち、変質するから、いやまあ、大体通じれば良いという、領域というか、範囲内であれば問題ないという、運用をしているので、別に構わないと言えば言えるか?
どうして正確に通じないかというと、情報の伝達に時間がかかりすぎるわけであり、会話をしている間に思考そのものが変質してしまうから。要は遅すぎるのであるよな言葉というものは。
なので、正確にそのままを伝えようということはそもそも不可能であり、それを踏まえた上で、コミニュケーションをとっていく必要がある、という話でもあるが、まあそれは実践の上での話であり、本質というか性質論とはまた違うわけではある、現実的ではないけれども、一考の余地がある題材と言えるのかもしれない。
知らんけど。便利だなこの言葉。
分かりやすい説明として言葉やら言語やらを槍玉に上げたわけではあるけれども、そもそも思考というものも定まることをしないわけであり、常に揺れ動いていて確定しない、それは時間というものに影響を受けているわけであり、他の情報と常に干渉しあっているからである。
それは閉鎖系に留まっている情報でも例外ではなく、常に脳内で反響しあっている、干渉しあっているのであるからして、瞬時にその時点での思考を切り取ることができるならば、確定したと言えなくもないが、それを伝える時点で、状況やら環境やらが変化しているのであまり意味がないとも言える。
少なくとも完璧に伝えるという点においては不可能なのである、と断言してしまうと語弊があるかもしれないが、厳密に判断するとそうなる。
最もそこまでの精度は必要ないというか、逆にそのまま伝わらないからこそ生まれる何かがあるわけであり、有益かどうかというレベルではないが、そういう性質があるという話でもある。
なにしろ自分自身との対話でさえ、伝わらないということはあるのであるというか、普通に断絶するわけである。繋がっている、連続しているように思えるのは、その方が都合が良いとする結果であって、正しく客観的な思考ではあり得ない。
自分自身が何であるのかと定義していること自体がおそらくは誤魔化しに過ぎないと言ったらば、過言ではあるが、まあ、真実に近いのではとか予想はしている。
どうだろう、やはり伝わらないだろう?
今何をしているかというと。ドヤ顔をしているのである。
続きは今度、書き散らしておくことにしよう、ではまた。