020_記憶は外部と内部にある。
周囲にある情報も記憶の内であるということである。
外部内部と分ける必要も本来はないわけではあるけれども、一般通念上、分けた方がわかりやすい場合も多い。
五感で感じるものからの連想も記憶システムの内であるという話である、というか入ってくる情報と内部で周り続けている情報に基本違いはなく、要はどこにおいてあるかの違いくらいと思って良い。
これを突き詰めていくとどうなるかというと、外部からの情報によって、体験してきて記録してきた脳みその記憶が変化してしまうことになるということであり、そしてそれは別に間違いというものではないのである。
客観的にはそれは違うのではないかという話ではあるけれどもそれを指摘できなければ観測できなければ全く支障はなく、そのまま流れていくものであり、更に言うならばそれは現実にも反映されてしまうのであり、真実が変質してしまうことになるのである。
大きく変わっていればわかるのではなかろうかということであるけれども、それすらも認識すらも置き換わってしまっているという幻想的というかファンタジックな変化をしてしまうこともこれも普通にあることであり、記憶とかは実に曖昧模糊としたものにすぎないというわけである。
では記録にして仕舞えば良いのではなかろうかという意見もまた正しいわけではあるけれどもその解釈が記憶やら情報の反響、影響し合うものの中に存在するのであるので、正しさは、加速度的に失われていくことに違いはないわけである。
ではどうすれば正しく伝わるのか、というならば、それこそが不可能であるという答えが出てくるわけである。
決して正しく伝わることはないのである、そこをきちんと知っているならば、ある程度正しく情報を使うことができるのである、どのようにいずれているのかを予測して、根源は何であったのか、想像するのである、これもまた確率的なところあたりしか確定しないものではあるものの、必ず伝わると信じて行動するよりは、幾分ましになるという。
ただまあ、これはいわゆるハウツーに近い換言であり、本質的に別にどうでも良い話ではあるのである。
大切なものは何もなく、等価でフラットなものしかないのであるよという話であるのであれば、実のところ伝わらない伝わる、記憶が混濁する、覚えられない、変化してしまう、ことはそのまま飲み込むべき事象であるということなのである。
記憶は結局のところ情報の流れであるという話である。




