012_どう行動するかは分からない。
自我がなく、情報の入手力によって行動が決定されているのであるならば、何をやってもよく責任はないのではないかという、疑問は出てくる。
それは間違いである。何をやっても良いのではなく、それが止められないだけであり、その結果によって、また他の行動が誘発されることは、普通にあるわけである。
責任があるかないかではなく、それがあるとするかないとするか、という思考が生まれるかどうかという話であり、絶対的なそれはないわけであり、ようは、それらの思考やら行動やらについてのリアクションもまた普通に誰にも止められないモノであるということである。
自我がないので、それもまた止められないわけである。そこに責任があり、なんらかの罰を与えようという思考の流れそのものも、これまた止められるモノではないということである。
ではそれが情報の入出力の結果訪れる、自動的な自我のない主体性というものがない思考やら行動であることを知ったとして何が変わるのであろうかというと、実のところ、実際にはあまり変わらない。
その気持ちやら感情やら思考への筋道やら丸々全部、止めることができないのであるからである、制御できないからである、流れに逆らえないからである、思考は、自分自身ではコントロールできないというか、そもそも自分自身がないのであるからして、おおよそ無理筋を攻めていることになるのである。
結果として、自分で判断しているように見えるだけの話であり、誰も止めることできず、流れを整える、誘導することもできず、ただ、反応を、まあ結構複雑なものであるのでそこで自我があるような気がする、単純さが、複数集まっているそれを、繰り返し、ドミノ倒しのように、連鎖させているだけの話であり。
それを誘導するというか、その連鎖中に発生るす熱量を吸収して成長する、生きていく、反応していく、なんらかの生き物的な存在が見られるというわけである。
それがいるから齟齬が発生するのではなく、齟齬が発生する誤解が生まれる、伝わらないからこそ、情報がずれるからこそ、存在する何かであり、そしてそれが存在することによって、存在し続けようとするので、齟齬誤解伝達のずれが、生まれ続けるわけである。
どちらが先かというならば、同時に存在するというしかないわけであり、円環を成しているというわけである。物質が先であろうから、まずはその場が先ではあるかという推測はできる。
責任を感じるのは自動的であり、感じられないものはやはりそのままであるのであるというわけである。




