011_頭なんぞ無くとも良い。
別に思考する必要すらなくそいういう場所やら機能やらもいらないのである。
ただそこにあるかないかで存在が決定する、あり方が決まる、性質が特定される、生きることになるわけで。
思考する場所やら記憶する場所やら、複雑な作りになっている、扱える場所があればそこが活用されるという程度の問題であり、時間が短縮される可能性が高いだけの話であり、それすらも、長い永遠とも言える時間経過が許される生き物にとっては誤差にしか過ぎないわけであり。
特別ではないけれども便利、なくとも構わないけれども、あればまた性質が変質する程度のものでしかなく、あまり人間側とは関わらないのであるのであろうかなということである。
見ているものが聞いているものが感じているものが資源としているものが、違う、価値観が違うというよりも、まさしく領域が違うので、争うことはないけれども、間接的に影響を与え合っているわけである。
交流は可能であるかというと実のところ可能ではある。明確な形としては残らないわけではあるけれども、いると思考した時点で、そいういう情報を得た、ような気になった時点で存在してしまっている、わけであり、その喪失はおそらくなされない、消える消えないではなく、見て取れるか感じられるか意識できるかそいう類の物であり、妖怪、魑魅魍魎に近い、構造をしている、が明確に違いがある。
直接的に意識する、観察することができないものであるということであり、それはかなり胡乱なプロセスを踏まなければ対話もままならないというよりも、対話は基本不能である。
誤解が誤解を重ねて、不理解が不理解をひねくれさせるようなものであり、そしてそれが正しいコミュニケーションにしかならないのである、ようはわからないままに進むわけであり、なぜならばそのわからなさが相手の求めるものであるからである。
基本に立ちかえると、それは、無理解、誤謬、誤解、すれ違い勘違い、つまりは、伝わらないということが、本質でありそれを熱量とする生命体であるからであり、そのそれそのものとの対話もまた、必ず、誤解されるからである。
なんの役に立つのかと言われるならば、簡単である。
色々と諦めが立つのである。
おそらくはこの概念を推し進めると悩みが小さくなるはずである。




