黒月は春の憂いと
春は不思議な季節だ。
誰もいない教室に踏み込むと、どこか空虚な匂いがした。
普段みっしりと人の詰っている場所だから、がらんとすると途端に妙な感じがする。
年が明けてから、高校三年生は自由登校になった。
週に一度の登校日以外は、必ず全員と顔を合わせるわけではない。
淋しいとか哀しいとか、そう言う明確な感情はないが、それでもこうして他に誰もいない教室にいると、耳の奥に聞こえるはずのないざわめきが満ちる。
朝。
授業中。
休み時間。
放課後。
いつだってこの場所には音が溢れていた。
「花岡?」
ぼんやりとした音に被って、いやにはっきりとその声は届いた。
「おい、目開けたまま寝てるのか?」
「河内」
クラスメイトは自分の席に鞄を置いてから、何を思ったか隣の席に腰を下ろす。
「なんだ?」
「いや。こうやって此処でお前と話するのもあとちょっとなんだな、と思って」
河内は春から此処から少し離れた場所にある大学部に通うらしい。
年上の彼女が其処にいるのだと、いつか彼の友人である加瀬が話していた。
かく云う加瀬は、県外の大学を目指しているのだそうだ。
センターの結果が良かったらしいので、多分合格するだろう。
「合格おめでとう」
唐突にそう告げると、河内は少し驚いたように目を丸くしてから照れ臭そうに目を逸らす。
「何だよ、突然」
「河内が受かったって、速見が言ってた」
「そうか。お前と速見は?」
「合否待ち。速見は公立だから、今試験中だ」
「あぁ、そうだな。あいつ学校の先生になるんだっけ?」
「そう。河内は、何かになりたいのか?」
「俺は」
言葉を探す様に唇を舐めて、河内は少し躊躇ったようだった。
「笑うなよ」
「笑うようなことなのか?」
「車掌だよ」
「電車の?」
「あぁ」
まじまじと見ていると、怒られた。
「なんだよ」
「凄いな」
「は?」
「なりたいものがあるのは、すごいだろ」
「無いのかよ、なりたいもの」
「正義の味方」
「は?」
「しいていうなら、正義の味方」
「お前、本当良く解らないよな」
今度は笑い出した河内は、けれど笑いをおさめてちょっと遠くを見る様な目をする。
この顔は覚えがある。
登校日にやってくるクラスメイト達も、話の継ぎ目にこんな風に遠い目をするのだ。
ついさっきまで、あんなに楽しそうに笑っていたのに。
「淋しいのか?」
「は? まあな。感慨深いだろ、もう数えるだけで高校生活も終わりなんだと思ったら」
「でも、漸く彼女と同じ学校通うんだろ?」
「なっ!? 加瀬だな! あいつ!」
途端に目に見えて赤くなった河内は、けれど気づいた様に咳払いをしてみせる。
「それとこれとは別だろ」
「別?」
「そうだ。新しい出会いがあっても、別れは淋しいもんだろ」
「そういうものか?」
「お前がぼんやり座ってたのだって、そういうもんだろ」
すとんと落ちてきた言葉に、なんだか目から鱗がおちた気がした。
「ふうん。そうか。そういうものか」
「うん?」
「オレも、淋しかったみたいだ」
真面目にそういうと河内は少し笑った。
春は不思議な季節だ。
嬉しくて、淋しくて、楽しみで、哀しくて。
一年は始まって、終って、また始まる。
蛍灯 もゆる




