二角獣と不即不離な玄鬣
「おはよう、エレン」
耳に届いた穏やかな声が、彼の眠りから意識を引き上げた。
古びて打ち捨てられた森の奥のその小さな聖堂が、彼の住家だ。
彼がただの野生の黒馬でないことはすぐに解る。
「ハーミア」
人語を解するより、それは見目で安易に知れた。
彼の額から伸びた二角である。
ただし、うち一角は痛々しくも途中で折り取られていた。
その彼の折れた角を撫でる人間の少女は、訝し気な彼の様子にその細い首を傾げてみせる。
「どうしたの?」
「どうして来た?」
「あら、来たかったからよ。当然でしょう」
「言ったはずだ、此処へはきてはいけない」
固い彼の声に、途端に少女は口を尖らせた。
「そんなの関係ないわ」
「ハーミア」
「私が来たいから来るの。それを止める権利は誰にもないわ。貴方にも、勿論お父様にもよ」
彼の艶やかな鬣に頬を寄せて、少女は歌うように目を閉じる。
彼が仲間から嫌われたのは、その特異な容姿故だったのだろう。
月のような白銀の鬣と鋭く伸びた一角。
群れは一様にそんな姿であったのに、彼だけは違う。
闇を切り取ったような漆黒の鬣。
そして、額から伸びた二本の角。
いくら身を縮めても、その姿は黒点のように群れの中から浮かび上がる。
彼の定位置は、群れから少し離れた影の中であった。
群れから離れる覚悟を決めたのは、主の世代交代が近付いたからだった。
今の主は無視はしないが、極力関わろうともしなかった。
けれど次世代を担うであろう主は、幼い頃から何かあれば彼を罵り嘲って、力を振りかざした。
彼の角の一本が、途中から無残に折れているのはそのせいだ。
彼らにとって、角は力を溜め、操るに当たって必要不可欠なものだった。
角が折れてから、彼は溢れ出る力をコントロールできずにますます群れから孤立した。
「どうして皆、貴方が邪悪だなんて思うのかしら。こんなに美しくて気高いのに」
憤慨するように零したハーミアに、彼は僅かにその目を細めた。
そんな風に言うのは少女だけだ。
誰も彼も、仲間と彼とを同じものだと呟くことはなく、ただ眉を顰めて彼を拒絶するばかりだった。
「私が二角だからだろう」
「一角と二角の違いがなんだっていうの?」
「私が漆黒の躯だからだろう」
「黒を否定したら、ワタリガラスも否定することになるわ」
「私が、」
尚も言い募ろうとすれば、途端に少女の小さな手が、彼の言葉を押し止めた。
「貴方の外見だけで貴方を決め付けるのは、それこそ愚かなことよ」
「私は、君が認めてくれただけで十分だ。それなのにその君が、君の仲間から遠ざけられるのを、私は望まない」
「いいえ」
きっぱりと首を振って、少女はひたと彼の瞳を見つめる。
「私は私の心のままに。それを曲げてしまったら、私は生きていても仕方ないわ。だから、エレン。私を遠ざけないで」
その真摯な瞳を拒むことが、どうして彼にできるだろう。
「ハーミア、私は人ではない」
「ええ、知っているわ」
「ハーミア、私は二角獣だ」
「ええ、知っているわ」
「ハーミア、私は君を愛しても良いだろうか」
少女はにっこり笑って、彼の首に飛び付いた。
「ええ、私も愛してるわ」
月の輝く夜。
道に迷って森をさ迷う人間は、泉の辺に佇む黒き獣と少女に出会うだろう。
それは一枚絵のような、この世のものとは思えない美しい光景だということだ。
尻切レ蜻蛉




