黒瞳描画。
さらさらと儚く。
描かれた黒色。
色の境界。
昼の暗闇と交わる視線。
温かな日常と最後の作品。
ずっと君に伝え続ける。
桜の花びらが散るうららかな春の日。探していた人を見つけた高揚で、考えていた手順なんてすべて忘れてしまった。
「あんたの絵に惚れました! 弟子にしてください!」
勢いよく頭を下げて、顔を上げれば目を見開いていた彼女はにっこりと効果音つきで笑う。その表情に手応えを感じて、同じように笑顔になりかければ、彼女はいい笑顔で口を開いた。
「寝言は寝て言え、このたわけが」
その絵の前に立ったとき、動けなくなった。
音も温度も時間感覚もすべて消え失せて、その代わりに自分の中で風が吹いた。
その絵をみたのは友人に無理矢理連れてこられた、まったく乗り気ではなかったある美術展覧会でだった。
友人のヒートアップぶりに付いていけなくなって、一人でぶらぶらと館内を見て回っていた時、その特別展示に気づいた。
地域の学生が描いた絵なんてたいしたことないだろうと、暇つぶしで見た最後の展示。
それがその絵だった。
その鮮やかさに、自分の中の全部が持っていかれた。
絵の下には少し角ばった字で住吉紗也乃、とその作者の名が記されていた。
「そん時、惚れたんです! で、調べてみたらここにいるっていうじゃないっすか! もう俺、運命かと思いましたよ!」
木陰に設置されたベンチに座る紗也乃の前で正座して、彼女の絵に惚れたいきさつを興奮気味にそう締めくくる。
何かしらの返事を期待して、にこにこと見上げていれば、紗也乃は手にしていた文庫本から氷のように冷たい目をこちらに向けた。
「うるさい、勝手にしゃべるな。私はそんなこと聞いてない」
「いやっすよ、師匠。俺もう弟子になるって決めましたから!」
ぐっと拳を握る。そのためにここに乗り込んできたのだから、諦めるという選択肢は毛頭ない。
紗也乃は目を細めてから再び文庫本に視線を戻した。
「ここがどこだかわかってるのか」
「え、それ答えたら弟子にしてくれるんすか! えっと、ここは、そう! 病院です!」
身を乗り出して答えれば、紗也乃の目が再度ゆっくりと俺を捉える。思わず、目をきらきらさせれば彼女はにっこりと笑う。
「わかったら黙れ」
紗也乃の病室は個室で他の患者のいないため、少しがらんとしていた。
命じられたように黙って、紗也乃の後ろを追って病室まで着いていった。彼女がベッドに入ったので脇のパイプ椅子に腰を下ろして足をぶらぶら遊ばせていれば、しばらくしてため息と共に師匠が体を起こした。
「お前さ、私の病気のことは調べてない。そうだろ」
え、と顔をあげれば、紗也乃の渋い顔。表現するなら不本意で不愉快といった表情で彼女は俺を睨む。
「お前は私がどうして入院してるか知らない」
「え、なんでわかるんすか! え、なんすかエスパー? 絵を極めるとそういうの目覚めんすか!?」
「……お前、大学生だよな」
「そうっす! あ、俺に興味持ってくれました!? 自己紹介遅れました、大学二年、大友雅紀、現在師匠を口説き中です!」
びしっと敬礼して見せれば、紗也乃は額に手を当てて重い息を吐く。そのまま顔をあげずに追い払うように手を振る。
「とりあえずお前、今日は帰れ」
「今日はってことは明日も来ていいってことっすね!」
「好きにしろ……」
「わ! 言いましたね師匠、聞きましたよ俺! じゃあまた明日っす、師匠!」
前言撤回される前に撤退せねばと慌てて荷物をまとめて、病室を飛び出す。
と、その前にもう一度、病室に顔を覗かせる。窓の外に目を向けている紗也乃の背中にさっきとは違う声のトーンで言葉を投げかける。
「俺、本当に師匠の絵が好きなんです。まだ弟子だって認めてくんなくてもいいし、信用してくれなくてもいいっす。ただ、師匠の絵が好きだってことだけは、それだけは本気だって認めてくださいね」
じゃ、と声をかけても、紗也乃は風にはためくカーテンを見ていて振り返りもしなければ、何も言わなかった。
それから、毎日でも病室に通った。初めは素っ気なかった紗也乃も、時折呆れたようにため息をついてから笑顔を見せるようになった。
一緒に庭に出て、紗也乃のスケッチを見ている時は感動した。
「なんでそんな正しい線をはじめっから描けるんすか!!」
「正しい線?」
「なんて言うか、俺は下手だから沢山しゃっしゃっって描いた線で何となく輪郭作ってるんすよ。それでやっと正しい線がその中に納まるっているか、誤魔化してるっていうか。けど、師匠は違うんすよ! 一発でその線をなぞってくっていうか! なんすかそれ神業すか! てか、上手く伝えらんなくてもどかしいっす!」
悔しいのと感動ともどかしさでスケッチブックをばんばんとそれでも控えめに叩けば、珍しく紗也乃が噴き出した。
「なんだそれは、そう大げさに言われると自分が神にでもなった気になってくるな」
「あ、ちょっと馬鹿にしてないですか!? 俺は本気で言ってんのに!」
「いや、馬鹿に、なん、てして、」
「めっちゃ笑いこらえてんじゃないすか!」
口元を押さえて、必死に肩の震えを押さえようとしている紗也乃にむくれる。
けれどむくれて見せたところで、本当は紗也乃の新しい一面を垣間見れて嬉しくも思う。初めの素っ気なさから考えれば、表情も言葉も随分やわらかくなった。正直、ここまでは思いもよらなかった。
心を開いてくれるとも思っていなかったし、そうさせることは自分には出来ないとさえ思っていた。必死だったから、ここまで馴れ馴れしくずうずうしく押しかけられたが、それはあくまで自分が精一杯だったからだ。
だから正直に白状すれば、ただ単純に嬉しい。
そういった思いから、表面的にしか拗ねられない自分の内心のせいで表情と態度はさらにムキになる。
「私の話はもういい。お前こそどんな絵を描いてる?」
そっぽを向いた俺の機嫌でもとるように、紗也乃は笑いをかみ殺しながら後ろから俺のスケッチブックを覗き込む。隠す間もなく取り上げられたスケッチブックに、うわっと思わず声が漏れる。
「や、師匠やめ」
「なんだ、お前だってなかなかいい筋……」
意地悪く笑った紗也乃はスケッチブックに目を落とし、ぴきりと固まった。俺はもうだめだと頭を抱える。
きっちり十秒の沈黙が落ちた。人生でこんなに長く辛い十秒は初めてだった。
えーと、と紗也乃が遠慮がちに口を開く。
「個性的、で、斬新だと、私は思うぞ」
「当回しに、これはないわーって思ってますよね、師匠」
「いや、ほ、ほらこの手を広げてる人? なんて秀逸じゃないか。この顔といいこのどっしりと構えた様子と云い強い生命力を感じるぞ」
「それ、そこに生えてる木です」
静かに訂正を入れれば、ぎこちなく紗也乃の顔が俺の方を向く。少し目が泳いでから、一言。
「………………そうか」
「いや! そこはいっそ笑ってくださいよ! 思う存分笑うところでしょうが!?」
「あは、あ、はははは」
「明らかにやる気ない! 顔ひきつってる!」
「……お前、本当に私に弟子入りしたんだよな?」
「ひっどいなこの師匠!? 裏切り者! どうせ俺は絵の素人ですよ!」
そう叫べば、本当に紗也乃は笑い出し、最初はぎゃんぎゃん喚いていた俺も気づけば笑っていた。
笑い疲れて、そのまま地面に仰向けに倒れ込む。
笑いが収まれば、心を満たすのはどことなく懐かしい感傷だった。
流れていく雲は青く澄んだ空によく映える。寒さも和らぎ、季節はもう春になる。
「俺、絵とか興味なかったんすよ」
ぽつりと語るつもりのなかった言葉がひとつ転がり落ちる。
「芸術より断然に運動が好きで、芸術品買うぐらいなら食い物たくさん買いたいし。冗談抜きに自分とは一番遠いとこにあるもんだと思ってて」
さわさわと音を立てる草木に穏やかな気持ちで目を閉じる。
「でも、師匠の絵を見て思ったんすよ。鮮やかだなって」
「鮮やか……」
「そう、単純で陳腐な表現すけど、それで全部持ってかれんだから人間なんて単純っすね。なんていうか俺の中では芸術ってもっとお堅いもので上品で現実じゃないところで広がってるっていうか、そんなもんだったんですよ。でも、師匠の絵は違った」
いまでも瞼の裏に焼き付いて離れないあの鮮烈な絵。あの、鮮やかな色彩。
目を開いてなお、これからだって何度でも思い出すであろうあの絵を思う。
「確かに俺も生きてるこの世にあるものだって、そう感じたんです」
へらりと紗也乃に笑う。その横顔が微かに歪んだ気がした。けれど、それも過ぎる雲の影に見失う。
陰った地面が戻った時、紗也乃は静かにスケッチブックを手に立ち上げる。
「戻るか、一雨きそうだ」
「あ、待ってください、師匠」
歩き出した紗也乃の背中を追いかけながら、目を向けた空はいつの間にか雨雲で黒くなり始めていた。
病室に戻ると、窓の外はもう暗く雨が降り始めていた。
紗也乃が無言でベッドに腰を下ろすのを見届けて、電気のスイッチに手を伸ばす。
「さすがに暗いっすね、電気」
「つけなくていい」
温度のないその声に、伸ばしかけた指が止まる。振り返れば、紗也乃は俺をまっすぐと見つめていた。けれどその黒い瞳は暗闇のように何も映していないようだった。
雨音が病室の静けさを浮き彫りにする。個室は他の病室とも離れているため、廊下の外の音さえどこか遠い。
「師匠、どうしたんすか」
困ったな、と意識的に口元を緩めて柔らかい声を出そうとする。昼間といえど、いま外は雨雲で覆われ夜のように暗く視界を悪くし、たくさんの雨粒が音を掻き消す。紗也乃の髪も瞳もその白い肌さえ闇に沈む。
「師匠、どうし」
「お前は私に弟子入りしてどうしたいんだ」
遮られた言葉は首を切られた人形のように当てもなく転がる。
「……師匠の絵を近くで見たいと思ったんすよ。弟子になれたら師匠が絵を描いてるところも、完成した絵もすぐ近くで見られる。そう思ったんすよ」
「そう、か」
「教えを乞いたいってだけが弟子じゃない、って俺解釈っすけどね。日本語は難しいっすから」
苦笑交じりに頭をかく。彼女のように描きたいと思ったわけでなかった。あの絵を見た感動を伝えたかった、そしてこれからはそれを伝え続ける地位が欲しかった。なんて図々しくて、自己満足な望みだろう。
けれど、だって紗也乃のあの絵は――――
「なら、私はお前の師匠ではいられない」
思考は紗也乃が発した言葉によって、強制的に途切れた。
「私はもう絵を描かない。いや、描かないと言うのは正しくない。描けないんだ。薄々、お前も気づいてるんじゃないか。私がスケッチしかしていないことに」
紗也乃は膝の上に置かれたスケッチブックをそっと指でなぞる。そこに描かれたものはすべて見せてもらった。堂々とした木々に瑞々しい花、笑う子供たちに寄り添うお年寄り、さえずる小鳥に古びたベンチ。そのどれもが鉛筆で描かれた、白と黒のスケッチだった。
それらにはあの絵のような色彩は、何処にもなかった。
「あの絵は私の最高傑作だ。必死で描いた絵だった。苦しくて泣きながら描いた絵だった。完成したときのあんなに満たされた気分は初めてだった。幸せだった。自分にこんな絵が描けるなんて思わなかった。これからも絵を描き続けていこうと思った…………思ったんだよ」
早口に紡がれた言葉は過去に閉じていく。まくしたてた熱は波のように引いて、紗也乃の顔は表情をなくす。
「けどな、あの絵を完成させた一週間後のことだ。交通事故にあった」
幸い目立った外傷もなく、利き手もかすり傷程度だった、と彼女は続ける。淡々とした語りにそれでも口を挟めなかったのは、紗也乃の指が暗い室内でもわかるほどにきつく白くスケッチブックを握りしめていたからだ。
「頭を打ったらしいが本当に異常はなかった」
師匠、と呼びかけようとしたのに声にならなかった。雨音が激しさを増すのに、彼女の声は掻き消されずに、静かに耳に届く。
待ってほしいと思った。その言葉は待ってほしいと。けれど、そんなものさえ言葉にならない。
彼女は、ただ、と薄く笑った。
「目が覚めた時、私の世界にもう色彩はなかった」
部屋の外で弾けた閃光が一瞬だけ、病室を照らした。
雷鳴は聞こえなかった。彼女の声以外の音がひどく遠かった。
「医師も困惑していた。こんな症状は初めてだと。脳に異常は見られない、もちろん目にも。けれど、私の目はもうすべてが白と黒にしか映らない。まるで昔見たモノクロ写真だ。厳密にいえば白と黒ではないのはわかる。けれど、色彩の溢れた世界に慣れていた人間から見れば白黒だ。なにが青でなにが赤でなにが何色なのかわからない、それは景色が死んだと同義だ」
彼女は言う。もう本当の色さえ忘れてしまったのかもしれないと言う。
「空が青というのは覚えている。でも、もうその色は私の記憶の中にしかない。誰かと共通化はできない。もともと人と自分の見ている色が本当に同じかはわからないことと同じだ。私の言う赤と他人の認識している赤はもしかしたら違うかもしれないと思っていたよ、それが怖いと怯えていたのも今にしてしまえば笑えることだ。なぜなら、いま誰かの色は私の中では白と黒としか表現できない。これならいっそ生まれた時からこの視界ならよかった。そうすれば疑問を抱くことなく、私はこの世界を愛せた。人の言う赤を自分の中の赤と同じと笑っていられただろう。けれど、色を知った私にこの世界は乏しすぎる」
もし生まれた時から色彩異常を抱えていたとしたら、その乏しい中でも違いを見つけ他人の言う赤と青を自分の基準で区別できた、と彼女は微笑む。微笑みながら涙をこぼした。
「白黒の世界で、今見ている空は本当は青で、あの花は赤で、あの人たちの肌は肌色だと考えることの虚しさと馬鹿らしさなんてきっと経験した者にしかわからない。記憶の中の色彩さえもう信じられないのに、どうやって今見ている世界を信じればいい? 描けばいい?」
「師匠……」
「なあ、教えてくれ」
頬を伝う涙はスケッチブックに落ちては黒くシミを作っていく。本当はわかっている。その色だって厳密には黒ではないのだ。黒と意識的に思うだけでもっと複雑な色だ。
空だって花だって海だって、一つに色にはなりえない。だから、人は色を混ぜ、描く対象とを見比べ、限られた原色からその色を生み出す。一度しか巡り会えないようなその色彩を作り出して、描いていく。
「お前、本当はあれ見たんだろう?」
落とされた視線の先は屑籠だ。いまは空っぽなそれが示すことに、俺は何も言わずに目を伏せた。
二日ほど前、屑籠にぐしゃぐしゃになった画用紙を見つけた。ちょうど、その時紗也乃は席をはずしていた。
手を伸ばしたのはそこに色が見えたからだ。皺を伸ばしてから、息が止まるかと思った。
めちゃくちゃに色をのせたその絵は悲しいくらいに黒で塗りつぶされていた。空は青と緑がせめぎあい、花々は原色がそのままのせられていた。その上を圧倒的な黒の線が走っていた。まるで失敗作になかったことにするように。その上には色を滲ませる丸いシミがいくつもいくつもできていた。
無意識に目をやった屑籠には同じように丸められた画用紙とバラバラに破かれた画用紙でいっぱいだった。
「わかっただろ? 私にはもう鮮やかな絵は描けない。描けないんじゃなくて描けないんだ。いまはあの絵を見るのだって怖い。私にはもうあの絵だって白黒なのだから」
「それでも、俺はあの絵が好きです」
合わせた視線は冷たかった。初めて目を合わせた時よりも凍えた瞳は嘲笑うように細められる。
「それを言って私をどうしたいんだ? 嬉しいと泣いてほしいのか?」
「俺、師匠の病気のこと知ってました」
初めから、と続ければ見開かれる瞳。そして、その表情は徐々に暗く沈む。
「そうか……初めから知っていたのか。なら、どうしてあんなこと言ったんだ……鮮やか、俺の生きてる世界にあるって。もう私にはあんな絵は描けないのに……っ」
「俺も同じ病気だからですよ」
「……え?」
「って言っても俺は先天性なんすけどね」
おどけるように口にすれば、紗也乃ははっと口を押えた。
「そんな、なら私は」
「気にしなくていいっすよ。実際俺には色の区別がつくから、二十四色の色鉛筆でも区別つきます。酷いことを言われたとも思ってませんから。だって師匠が言ってること当たり前のことっすから」
何気なく窓の外に目を向ける。この視界に映る色を自分は普通だと、他者と同じだと思っていた。けれど幼いころ受けた検査で自分は他者と違う色を見ていると知った。明度が低く、一般的には白と黒という視界。もちろん他者とひとくくりにはできないかもしれないが、それでも一般的ではないと言われた。それから、どこかで思っていた。
自分の世界は人よりもよほど貧しく、乏しい色で世界を認識しているのだと。しかも、それは自分では認識さえできない。知らないからこそ、色彩への憧れは募った。色に、焦がれていた。
「でも、師匠の絵は違ったんすよ」
以前と同じ言葉を繰り返す。
「師匠の絵は鮮やかだった。俺が知覚してるより本当はもっと色彩的には鮮やかなのかもしれないけど、あんなに叫んでる絵を初めて見た」
苦しいと悲しいと辛くて身が裂かれそうだと、その絵は言っていた。その絵は感情で溢れていた。
眩しいくらいに、目がくらむくらいに。そして、最後に
「俺もこの絵を描いた人も同じ世界に住んでて、色は違っても同じものを見ていて、いろんなことを感じて苦しんだり笑ったりして生きてて。だから、別に乏しいとかじゃないんだって、そういうことじゃないんだって」
気づけば紗也乃はぼろぼろと泣いていた。後から後から零れていく涙を見て鼻がつんとした。
「ってやっぱり、上手く言えなくてもどかしいっす。日本語は難しいっすね」
「そう、だ、な……っ」
「感動を伝えるなんて大袈裟なこと言っても、俺の精一杯はこれなんです」
「そう、か……っ」
「だから師匠」
そっと紗也乃に近づくと、その前に膝をつく。俺を見下ろす涙に濡れたその瞳に笑いかける。
「これからもあなたの感情のままに描いてください。それがあなたの絵ならそれがあなたの鮮やかさです」
ね、と首を傾げれば、彼女は手で顔を覆ってこくりと頷いた。指の隙間からぽろぽろと零れていく涙が光に反射して煌めく。いつの間にか雨は止んで、雲の隙間から日の光が差していた。
「この色は?」
「青っすね」
「どんな?」
「えーっと、ちょっと緑がかった感じっすかね」
「ならこの色は?」
いま病室の机にはたくさんの絵の具のチューブが転がっている。それを一つ手に取る度に紗也乃が俺を見上げる。
「ちょっと休憩しませんか、師匠。俺もう喉からからっす」
「あぁ、悪い。もう結構時間が経っていたな」
時計を見て驚いている紗也乃に、苦笑して冷蔵庫から取り出したペットボトルを手渡す。
紗也乃はあの後、泣き止むと俺に一つ頼みごとをしてきた。俺から色の区別を教わりたいと。
同じ病気なのだから見ている世界に大きな誤差はないだろう、と彼女は言った。なら認識の差である、とも。
「お前が区別できているなら私にだってできるはず、そうだろ?」
そう笑った彼女はとても晴れやかだった。
「本当は別に色の区別ができないならそれでもいいんだ。それならこの視界でも絵を描く。ただできることはしたい。こうなってよくわかった。私は絵を描くのが好きなんだ」
「やっぱ、師匠はかっこいいすね」
「かっこいいと言われた覚えはないぞ?」
「心の中でいつも言ってたんすよ」
「……そうか」
「え、なんすかその目! まるで可哀想な子見るみたいな」
「……そうか」
「ちょ、否定はないんすか!?」
「……」
「なんで黙るんすか!?」
そこで黙るものだから、ふて腐れてお茶を口に含む。すると、目を伏せていた紗也乃が遠慮がちにこちらを見る。
なんだ、とお茶を飲みながら見つめ返せば、彼女は言う。
「お前も」
「はい?」
「お前もだ」
単語的過ぎて意味を測り兼ねて首を傾げる。なにが俺もなのだろうと、前後の会話内容とを思い返して考えてからその意味を理解して、その不意打ちにわっと顔が熱くなる。一方、相手はいつも通り。こんなことで赤面するのが恥ずかしいし、さらには一方的なことが悔しい。
とりあえず、顔の熱が引くまでそっぽを向いていようと決める。話しかけられることには答えるが、そっぽを向いている俺に痺れを切らしたのか紗也乃の声が微かに苛立ちを帯びる。
「おい、私が何かしたか」
「別に」
「なんださっきから。いい加減にこっちを見ろ」
「なんでもないいですって。気にしないでください」
意地を張る自分も情けないし、紗也乃を怒らせる自分も情けない。何をしているのだと内心でため息をつく。
「あぁもうなんなんだ! こっちを見ろ、雅紀!」
「え?」
気づけば、意地もなにも消えて振り返っていた。眉を寄せた不機嫌そうな表情の紗也乃がそこにはいて。
「なんだ、その顔は」
「名前、覚えてたんすか……」
「覚えてたら悪いのか」
むっとした紗也乃に、一拍のちに顔が自然と綻ぶ。さらに、眉根を寄せた紗也乃に笑って見せる。
「師匠にいいこと教えます。虹彩が黒だと色彩を認知する幅が広いそうっすよ、だから師匠もちゃんと色区別できるようになりますよ、俺みたいに」
「そうか」
どこか安心したように柔らかく微笑むその顔にぐっと息が詰まる。俯きたくなるのを押さえて、紗也乃に少し近づく。
「で、色を区別するためにはまず本物の黒を見て覚えなきゃいけないっすよね?」
「? あぁ、まあ最もだな。それで本物の黒って?」
きょとんと目を丸くする紗也乃の瞳を覗き込む。
「俺の目っす」
「え」
「まず、そっから始めましょっか、師匠」
「あ、あぁ、それなら手頃だからな」
少し赤くなった紗也乃の顔に少しだけ満足する。真面目な彼女のことだからきっとこれも自分のためだと思うだろう。
俺としては少しの意地悪と仕返しと、そして下心もなくはないのだがそれはまだ明かすつもりはない。
桜の木の下で彼女を見つけた時から、きっと目覚めた思いだから。
彼女にたくさんの感動を伝えることができたら、また桜が咲くころにこの気持ちを言葉にしよう。
それまでにはこの不思議な師弟関係も、少しは形を変えていることを祈ろう。
紗也乃が窓の外に目を向けた俺の視線を追いかけて、首を傾げる。
「どうした、雅紀?」
「いーえ、師匠。なんでもないっすよ」
自分の脳内設計に笑って、紗也乃に手を振って見せる。
窓の外には桜の花びらが舞っている。春はまだまだこれから柔らかく色づいていく。
シュレディンガーの羊




