白雪凛音。
白雪
しんしんと深く。
降り積もる白色。
喪失の音。
開いた傘と踏み出した一歩。
非なる日常と最後の約束。
もいちど君に会いたくて。
彼とは雪の降る公園で出会った。
雪が降っている。音もなくただしんしんと公園を白く染めていく。
傘を差したままベンチに腰掛けていれば、やあと声をかけられた。
「元気かい? 美羽さん」
「こんにちは、眞臣さん。私は元気よ」
「それは良かった」
ここいいかな、と朗らかに微笑んで、眞臣さんは頷く私の隣に腰を下ろした。紺のマフラーと少し長い前髪のあいだから覗く頬は寒さで、かすかに赤く染まっている。眞臣さんの傘がこつんと私の傘とぶつかった。
「あ、ごめんなさい」
「いやいや、これはお互い様だから」
いつも繰り返すこんな他愛もない会話に心が温かくなった。
眞臣さんは雪の降る日にだけこの公園にやってくる。はじめて会ったのは、今年の初めて雪が降った日。
早く目が覚めてしまった暇つぶしで朝早くにぶらぶらと外を歩いていたら雪が降ってきた。あいにくと傘は持ってきていないし、どこかで休めればと思ったけれど、よく考えれば財布を持っていないからお店に入るのも気が引ける。
それで公園に屋根付きのベンチでもあればと思って、めったに行かない公園に足を向けた。
公園には先客がいて、降ってくる雪に一人はしゃいでいた。朝早く、しかも雪が降っているというそれだけでそんなにはしゃげるなんて幸せだな、なんて感想を抱きながらベンチを探せば残念ながら屋根はついていなかった。
それでも、ここまで来てそのまま帰るのも、妙にもったいない気がしてベンチに座って雪が積もっていく様をぼーっと見ていれば、ふいに視界に影が落ちた。
顔をあげれば、傾けられた傘。
「え?」
「傘がないと寒いでしょう。僕は遊んでいたら温かくなってきたので、これどうぞ使ってください」
差し出されるままに傘の柄を受け取れば、さっきまで雪にはしゃいでいた彼はにっこりと笑った。
「雪が降るのを見てると幸せな気持ちになるのわかりますから」
連絡先も何も聞かずに別れてしまったから、次の日傘を持って公園に行った。また雪が降っていたから自分の傘をさして、彼の傘を片手に。
そこで、傘もささずにベンチに座っている彼を見つけて話しかけた。それが始まりだ。
それからは二人でベンチに座って、白銀に染まっていく公園を見ながらよく話をするようになった。
交わす会話は穏やかで静かで、けれどとても心地よかった。他の誰といる時より、何も考えず笑顔になれる気がした。眞臣さんは穏やかでいて、少し変わった優しい人だった。
黒い傘がベンチにあるのを見るたびに、駆けだしたくなる気持ちを知った。
眞臣さんは雪の降る日しか公園にこない。つぎの約束もない、そんな曖昧な、時間。
だからか、気が付けば私は雪の日を待ち遠しく思うようになった。
そう、まるで雪に恋焦がれるように。
「美羽さんは大学生だったよね、大学は楽しい?」
ふいに眞臣さんからそう尋ねられて、一瞬だけ言葉を忘れてしまった。
「楽しい、よ」
「そう? あまり聞かれたくないみたいだったから」
「いえ、平凡だけどだからこそ楽しいわ」
慌てて否定すれば、眞臣さんはきょとんとしてからくすくすと笑った。傘から雪が滑り落ちて音をたてる。
「平凡だけど楽しい、興味深い表現だね。美羽さんの言葉の選び方はいつも秀逸だ」
「そんなことないわ」
目が見れなくて、少しだけ俯く。いまのやり取りで気が付いてしまった自分の考えに顔が曇るのがわかった。
白に染まる公園には子供たちが駆けている。新しく積もった雪に足跡をつけて子供たちは笑っている。
「あの子たちはどんな大人になるんだろうね」
私が子供たちを見ていることに気づいたのか、眞臣さんはぽつりと言葉を零す。
雪が降ると周りの音が少しだけ遠くなる。色も、雪というフィルターを通したように少しだけくすみ、世界が微かにぼんやりと夢のように現実味を失う気がする。
子供たちの笑い声も同じ空間にあるものなのに、どこか遠い。
「きっとなりたい大人になれる子は少ないわ」
「美羽さん?」
眞臣さんの伺うような声にはっとする。無意識に零れた呟きに自分を見て顔が赤くなる。
用事を忘れてた、なんてありきたりな理由で慌ただしく別れを告げ、そのまま逃げるように家に帰った。
雪と公園と眞臣さん。それは平凡に生きてきた私にとって一種のファンタジーだった。
日常とは違う、ほんの少しの非日常。
本当は連絡先だって、名前以外の情報だって、尋ねれば知ることはできるけれど私はそうはしなかった。
それはちょっとした非日常を楽しみたかったからに他ならない。
謎と曖昧さと危うさが保つその不思議な彼との時間に私はきっと酔っていた。
だから次の雪の日、公園のベンチに誰もいないのを見て、私は自分がいかに愚かだったかを知った気がした。
それと同時にやっぱり、という諦めと自嘲が零れた。
自分の愚かさが招いた結果はこうしてきちんと形になる。
次の約束をすればまた会えた。連絡先を聞いていればまた話せた。そうすれば雪の日を待たなくても、自分から動けた。
けれど、そうしなかったのは自分だ。
生身の人間として付き合いを持つことは温かで、そして恐ろしい。彼を現実に持ち込んで傷つくのが怖かった。
彼との時間は大切だった。だからこそ、それ以上を踏み込むのが怖かった。
あの日から雪は降らない。
そうして、少しずつ春に近づく世界は白を溶かしていく。
大学の窓から外の景色をぼんやりと眺めていた。
あれから眞臣さんと会うことなく、雪は解け、季節は春に向かっていた。
日常は問題なく時間を進め、明日へと続いていく。それでも何かを失ったようなそんな気持ちは消えずに心に残った。だから、以前と何も変わらないようで、あの時間は自分を変えたのだと感想的になる。
そういう時は身勝手な想像をするのだ。彼も少しだけ同じ思いを抱えている、なんて子供じみた夢想を。
今回もそんな想像に浸っていたから、ちらり、と視界を過った白に気づくのが遅れた。
はっとして窓に駆って、空から舞い落ちてくるものに手を伸ばす。
それは冷たく手の上で溶け、瞬く間に水になった。
気づけば、私は何も考えずに外へ走り出していた。
「そんなに息を切らせてどうしたんだい?」
街の喧騒を走り抜け、たどり着いた公園のベンチの前で眞臣さんは変わらず笑っていた。淡く降る雪は降る積もることなくすぐに溶けていく。以前に公園を白銀に染めていた雪はもうすべて溶けてしまっていた。
「傘、また忘れてきたのかい?」
穏やかなその声は別れた時から何も変わらない。それが腹立たしくなるくらいに嬉しかった。
もう会えないと思って自嘲まじりに泣いていた自分が顔をあげる。
「えぇ、だから傘に入れてもらえたら嬉しいの」
きょとんとした眞臣さんは、まっすぐ見つめ返す私を見て頬を緩めると芝居がかった動作で傘を傾けた。
「もちろん。どうぞ、お嬢さん」
「ありがとう」
とん、と踏み出した足は少し震えた。
傘がぶつからないようにととる距離がもどかしく愛おしかった。2人で互いにさした傘がぶつかる度に、ほろ苦いチョコを食べた時の気持ちがしていた。
近づきたくて、けれどこの距離を大切にしたかった。でも本当はやっぱりそこから、一歩踏み出したかった。
「……思ったより近い」
すぐ触れる距離になって思わず零れた言葉に、眞臣さんが噴き出す。
「美羽さん、ずるいよ。かわいい」
「な、」
「僕に会いたくて走ってくれたんでしょ? 僕のこと知りたくて傘入ってくれたんでしょ? 本当はいつ踏み込んできてくれるのかなって期待してたんだよ」
「な、なにそれ!」
「幸せそうに笑ってくれるけど、なかなか近づいてきてくれないから、猫みたいだと思ってた。懐いてるようでなかなか懐いてくれない猫、って言えば伝わるかい?」
「私は猫じゃないわ!」
嬉しそうに笑う眞臣さんに泣きたくなる。自分ばかり必死で、眞臣さんの思い通りだったのかと思うと本当になんだか泣けてきた。
俯いた私に気づいて、ぽんぽんと眞臣さんが頭を撫ででくる。
「僕も不安だったよ。今日来てくれるとは思ってなかったから、こんな忘れ雪みたいな積もらないような雪の為に走ってくれるとは思わなかった。もう会えないかもしれないと思ってた」
「……眞臣さんのこと教えて。そうよ。私、あなたのことが知りたくて走ったの、ここにきたの。雪の日じゃなくても会いたいわ、だってそうしたら傘をささなくてもいいもの。もう雪は降らないかもしれないって思ってわかるなんて馬鹿みたいだけど、約束が欲しいの。次に会える約束が」
顔をあげて、目を合わせて、その距離に立ち眩むような錯覚を起こす。それでも、目を逸らしたくはなかった。
雪が音を奪うから、世界はとても静かで、知らずに息をひそめる。
黒い傘と舞うように降る雪、公園とベンチと交わした会話。
眞臣さんは緩やかに音もなく微笑んだ。吐息は白く零れて、言葉になる。
「来てくれてありがとう、美羽さん、ありがとう。もう一度会えて本当に嬉しかった」
「嬉しかった……?」
過去形で紡がれた台詞を無意識に繰り返していた。呆然と見上げる私を優しい眼差しが見下ろす。視界の端には雪が舞っている。でもそれはとても儚いものだ。明日になる前にはすべて溶けてしまうような、そんなもの。
「聞いてくれるかい、美羽さん」
優しく静かに、眞臣さんは傘の中で私にそう囁いた。
生まれた時から聴覚が常人よりも遥かに優れていた。普通なら聞こえない遠い音を簡単に拾える耳。
幼いころはまだよかった。年を重ねるたびに、より鋭敏になる感覚に気が狂うと思った。
世界はうるさいぐらいに音に満ちて、耳を塞いでも思考にまで浸食した。
人の声、鳥の鳴き声、鐘の音、足音、風の音、自分を取り巻く音の濁流。
音に、殺されると思った。
唯一信頼を寄せる医者は研究と称し、自分に生活の糧を与えてくれた。防音室と研究室とを往復する単調な日々。
耳栓とヘッドフォンをして辛うじて外の世界に立っていられた。けれど、それも何時間と持たない。
人との会話など、とうに諦めた。
けれど、ある日、世界が随分と静かなことに気が付いた。それは少しの変化かもしれなかったけれど、閉じた世界から見れば大きな変化だった。
窓の外は白銀に染まり、空から雪が舞い落ちていた。雪は音を奪うと知識では知っていたけれど、子供だましくらいにしか思っていなかった。
雪の中、立ち尽くして、久しぶりに笑った。
それから、雪の日は自分の中で特別な日になった。
「でも、交友関係なんて築いてこなかった僕が雪の日にできることなんて限られてる。せいぜい初雪の日にはしゃいで駆け回って、その後は外の街並みを眺めてるぐらいだよ。いつ雪がやむかもわからないからなおさらだ。だけど、本当は人とかかわりを持ちたかった」
そこで眞臣さんは言葉を切って、少しだけ目を伏せた。
「なら、私は」
「うん、誰でも良かったんだ。美羽さんでなくても良かった」
悲しそうに笑う眞臣さんを見上げながら、弱い人なのだな、と思った。弱くて正直な人だ、と。
零れた涙は音もなく滑り落ちて、
「なら、私は望まれていたのね」
眞臣さんが驚いたように息をのむ。
「それだけで教えてもらえれば十分よ」
とん、と眞臣さんの体を押し返す。黒い傘から逃げ出して、私はひとり雪空の下に立つ。
戸惑った表情の眞臣さんに笑って、わざと声を張り上げた。
「雪がそろそろ止んでしまうわ。帰らなくてはいけないでしょう」
さみしく揺れた瞳の色に、もう一度息を吸い込んで言葉を投げる。
「忘れていたわ。約束を頂戴」
遠くで子供たちの楽しそうな笑い声が聞こえる。私があれぐらいの年だったころ時間は長くて途方もなかった。
でも、雪が自分の手のひらに舞い落ちてくるのを待つのは好きだった。
たとえ、それが解けてゆくことを知っていても好きだった。
「眞臣さん、私に約束を頂戴」
繰り返せば、くしゃりと顔が歪んで、それから小さく彼は問うた。
降っては溶ける雪の中、たった一人の私に問うた。
「雪が降ったら、また会ってくれるかい?」
雪は解けて春はもうそこまで来ている。
でも、それは決して終わりではなくて。
「ええ、もちろんよ」
私はそう笑ってたった1人の眞臣さんに言葉を返した。
シュレディンガーの羊




