書状
徳川家康は動揺を気取られないように必死に表情を繕った。
家康は書状を手にしたが、正純から聞いた言葉を信じられなかった。
間もなく死を迎えるはずの結城秀康が越前からやってくるという事実。
秀康は毒を盛られ衰弱しており、間もなく死を迎える。
越前に忍び込ませた間者からそのような報告を受けていた。
間者が嘘の報告をしたとも考えたが、天下人である自分を欺く危険を知っているはずであり、虚偽の報告をする事はあり得ない。
ならば、何故秀康が駿河に来れるまで回復したのか。
毒を盛っている事は気付かれたと報告されていない。
秀康の暗殺は徳川家でも家康のみが知る最大の秘密である。
毒による暗殺計画は家康と福井藩に忍び込ませている間者以外は誰一人知らせていない。事が露見すれば徳川家が崩壊しかねない。
父である自分が子である秀康に毒を盛り、ひそかに暗殺する。
血で血を洗うような戦国時代がようやく終わりかけている中で天下人である自分がそのような事をしていることが発覚すれば徳川家への不信感が頂点に達する。
そして不信感は徳川家への叛意にたやすく変貌を遂げ、叛意は行動へと繋がる。ようやく静まりを見せた天下に天下人自身が波乱の火種を振り撒く事になりかねない。
家康が秀康の暗殺を決意したのは秀康個人が憎いからではない。
豊臣家一門であり、将軍の実兄でもある秀康は徳川家にとって非常に扱い難い存在であり、その影響力は無視出来るものではない。
豊臣家に好意的な者からは、徳川家に豊臣家の存在を取り成せる唯一の人物と思われており、豊臣家を滅ぼして徳川家の安泰を図りたい者からはその意見を阻止出来る実力者と見られている。
秀康がその実力者となりえる事をよく知るのは父である家康自身である。
戦国武将として幾度も合戦を経験した優秀な次男であり、秀康が召抱えた家臣も優秀な者達が多い。彼らは徳川家ではなく秀康個人と秀康の家に忠義を持っている。
また、京や大坂に近い越前六十万石の主であり徳川家で最大の領土と発言力を持つ一門衆筆頭ともいえる存在として、将軍秀忠ですら秀康に遠慮している。
家康が健在ならば対処できるが、死後には秀康に正面から敵対することができる存在が徳川家の中にいなくなる可能性を持つ危険人物でもあった。
秀康を暗殺して、徳川一門から豊臣家の繋がりを断ち切る。
その後に豊臣家を従属では無く、滅亡させる。
そうしなければ、徳川家への反逆の芽が将来に残ってしまう。
自分の手で、かつての主家である豊臣家を滅ぼした上で徳川の天下を盤石とする。
大坂を攻めるには、豊臣家を滅ぼす事に反対する者を減らさなければならない。
その為には秀康という人物は消滅させねばならないと家康は考えている。
嫡男に続いて、次男をも手にかける事に対しては少なからず罪悪感を感じている。
だが、徳川家の安定を盤石にするためには秀康を葬り去らねばならない。
予想外の事を聞いた家康はしばし硬直したが、気を取り戻して正純の手から書状を受け取り、深く呼吸して読み始めた。
書状の中身はひどく簡潔なものであった。
「日々の食事にも気をつかって療養していたが、病から回復する事が見込めず自分はもう間もなく命が絶える」
「死ぬ前に父上に会い、話がしたいので駿府へ向かっている」
「父上と自分に所縁のある方より頂いた家宝を父上に返却したい」
「自分が父上に別れの挨拶に来たことが周りに知られると、父上に迷惑になるかもしれないので親子だけで話したい」
「父上に会う事は冨正以外には知らせていない」
家康は書状を何度も読み返し、書状に込められた意図を読み解こうとしていた。
素直に読むと、間もなく死を迎えるので親子に所縁のある人物から下賜された家宝を自分に託し、親子として最期の別れをすべく父の元へ行き、少しだけ話がしたいと読み取れる。おかしな内容では無い。
本多冨正以外に駿府へ行く事を知らせていないのも、秀康が別れの挨拶に来た事が周囲に知れれると、様々な人が駿府にやってくる事になりかねず静かに別れを遂げたいという希望が叶えられなくなる事を心配していると読む事が出来る。
だが、家康は書状の内容から別の意味を読み取り、思案していた。
(儂と秀康に所縁のある者から頂いた家宝とは何を意味するのだ。儂と秀康に所縁がある者といえば太閤であろう。何故太閤から下賜された品を儂に託すのだ。家宝という言葉に何らかの意図があるということなのか……。それに、食事に気を使ってという言葉を使っていることかは毒による暗殺に気付いたと判断すべきだな。どうやって気付いたのか確認せねばならん)
毒殺を家康が仕掛けたと知っているのか、秀康と話して確認しなければならない。
家康が仕掛けたと秀康が確信すれば、激昂して兵を挙げる事すら考えられるのだ。
(儂が兵を率いてそれを破る事は可能だが、問題は周囲の者に知られる事だ。 そうなったら徳川家の天下などは砂上の楼閣のように容易く崩壊してしまう。息子に毒を盛ったという事が周囲に知られたら、徳川家への不信感は瞬く間に頂点に達する。罪のない者を暗殺する主君に仕える者は誰一人としておらん。それだけは何としても防がねばならん……)




