一縷
慶長十二年 八月二十六日 越前国
結城秀康と本多冨正の策謀を防ぐべく、土屋左馬助に助力を頼んだ忠勝への回答は予想していたとはいえ最悪の内容であった。
『中務大輔様。当家は中務大輔様からのお申し出を受け入れる事は出来ませぬ』
徳川家康が結城秀康の謀殺を試みて返り討ちにあったのは否定しようがない事実である以上、結城家の家臣からすれば忠勝の申し出は論外ともいえる内容である。
主君を謀殺した上に徳川家の危機を回避する為に手を貸せなどと虫の良い話など聞く耳を持たぬ。主君の仇である徳川家への協力など御免蒙る。
土屋左馬助の返答にその思いが込められている事を理解した忠勝は例えようのない無力感を感じて押し黙った。
越前結城家が徳川家に敵意ともいえる思いを抱いているのは土屋左馬助の回答から疑いないものとなった。
結城家は先代当主の結城秀康が豊臣秀吉の養子となった縁から豊臣家や豊臣恩顧の大名達との交誼があり、秀康が死ぬ直前には豊臣恩顧の大名は結城秀康と結城家にかなりの配慮をしていた。豊臣家の存続をとりなせるだけの人望と実力を持っていた徳川家の一門衆だったからである。
また天下人であった徳川家康の次男であり二代将軍徳川秀忠が細心の注意を払って接していた唯一の徳川家一門衆であった為、外様の大大名も結城家には一目置いていた。
徳川家の一門の筆頭格である結城家が謀反を起こせば、将軍家を頂点とした幕府の体制は根底から崩れる恐れがある。まして、多くの諸侯から合戦手腕を恐れられた徳川家康は結城秀康の謀略によって討ち取られている。
結城家の挙兵は徳川家将軍家による統治を快く思わない者達に、公然と叛旗を翻す理由を与える事に繋がってしまう事を理解している忠勝は土屋左馬助に本多家の改易と自身の自害を条件に翻意を願った。
『土屋殿。貴殿や吉田殿の御気持は理解できる。中納言様を害し奉ったのは徳川家だと言われれば申し開きが出来ぬ。その徳川家に手を貸せと言われても納得出来ぬのが貴殿の偽らざる心情だと某のような愚か者にも理解できる。なれど、そこを曲げてお頼み申す。最早頼る事が出来るのは貴殿達しか居らぬ。腹を切れを申すならこの場で切腹致す。本多家を潰せと申すなら、親子揃って潔く自害する。中納言様と某を同等に扱うなどおこがましい限りだが、某には死んで詫びるくらいの事しか出来ぬ。このままでは再び乱世に逆戻りする。忠直様を含め、越前の御家の方々もそれに巻き込まれるのは必定。それだけは理解頂きたい』
忠勝の必死の懇願を左馬助は黙して聞いていた。
だが、左馬助も吉田好寛も忠勝の懇願を受け入れる素振りは微塵も無かった。やがて、左馬助は忠勝の懇願を断ち切るかのように再度言葉を口にした。
『中務大輔様。主君を害しておきながら手を貸せという虫の良い話を当家が承諾出来る訳がありませぬ。そも中務大輔様の御話しは徳川家を守らんがために結城家に手を貸せという内容。我等は先程も申し上げた通り、秀康様の御意志に従い、結城家を守る所存。徳川家の危機に手を貸す余裕も無く、余裕があったとしても亡き殿の御身に起きた事を鑑みれば、徳川家に手を貸す事などあり得ませぬ。恐れながら中務大輔様や佐渡守様が手を貸す代償として自害すると申しても、徳川家に手を貸すことは出来ないとご理解頂きたく存じます』
忠勝の必死の懇願を左馬助は一蹴した。
唯一の希望であった結城家の協力が無い状況となった以上、穏便に事態を収拾する事が出来なくなったと理解した忠勝は今後どのようにすればよいのか途方に暮れていた。
考えられるだけでも、徳川家の危機は幾つも思いつく。
徳川秀忠が述べた時期将軍職の継承問題。
越前結城家の挙兵。
結城家との関係を強化し、豊臣家復権を目論む豊臣家恩顧の大名への対応。
前田、上杉、島津、毛利、伊達といった外様の有力諸侯の反徳川の動向。
それらの問題を忠勝や正信といった戦国を戦い抜いた古強者が生きている内に解決する事が不可能である事は忠勝には容易に理解出来た。
それゆえに、左馬助の返答を聞いた忠勝は自身の望みが崩れ去り、己の生涯が無駄に終わる事の無念を噛みしめていた。
(やはり徳川家には力を貸せぬか……。儂の人生は、儂と共に大御所様の為に戦い世を去った者達の人生は無駄となるのか。覚悟を決めねばなるまい。事をこれ以上は隠し通す事も出来ぬ以上、幕府の主だった者には説明せねばならぬかも知れぬ。そうなれば越前の御家を攻めるという戯けた事を申す者も居るであろう。大将もおらず戦の経験もないような者共など烏合の衆も同然。主君の仇討の覚悟を決めた結城家の者との戦いになれば勝利するのは難しい。前田家などが動く事もあり得るのだ……。徳川の御家が緩慢に死を迎えるのを寿命が尽きるまで見るのが儂と佐渡の役目か。否、亡き中納言様が我等に与えた罰なのかも知れぬ)
生涯を掛けて守り抜いた徳川家が緩慢な死を迎える事を理解した忠勝は絶望感を感じながら、江戸に戻り徳川秀忠、本多正信と急ぎ会談の席を設けて今後の対応を協議しなければならないと考えていた。
だが、忠勝の思案を邪魔するかのように土屋左馬助が忠勝に声を掛けた。
『中務大輔様。結城家は徳川家に手を貸す事は出来ませぬ。なれど当家の危機に徳川家が手を貸すと申すならば、それを拒むような事も致しませぬ。その結果として徳川の御家が抱えている問題が如何なる結末を迎える事になろうとも、結城家は関与も抗議も致しませぬ』
忠勝は土屋左馬助の発言を聞き、僅かではあるが十重二十重に包囲された状態から抜け出せるかもしれないとの期待を抱いた。
徳川家の崩壊を望むならば土屋左馬助の発言は余計なものである。
だが、忠勝には土屋左馬助が吉田好寛が同席している状況で戯言を口にして、自身を謀ろうとしているようには思えなかった。
(徳川家に手を貸せぬが、越前の御家の危機に徳川家が手を貸すならば状況が変わるかもしれぬという事は何を意味するのだ……。だが徳川の御家に余裕が無いことは明白。土屋殿や吉田殿はそれを理解しているはずだ。この両名が今の状況で儂に戯言を申すなど考えられん。儂に越前の御家が落ち着きを取り戻す為に手を貸せと申すのか。その結果として徳川の御家の危機が回避できるかもしれぬならば、詳細を確認せねばならん。表向きには関与せぬが、裏では手を組む意思があるというのか……)
忠勝は全ての責任を自身の命で償う覚悟を決め、土屋左馬助に発言の意図を尋ねた。
『土屋殿。貴殿の申された意図を確認させて頂きたい。某が知る限り、徳川家も結城家も家中が分裂し崩壊する危機に直面しておる。ゆえに我等はその危機を回避するべく懸命になって足掻いておる。某は徳川家の危機を防ぐ為、貴殿に協力を依頼したが、貴殿はそれを拒否した。なれど結城家の危機を回避する事に某や佐渡が協力するならば、その返礼として徳川家の危機を回避する事に繋がるように行動して頂ける。某には貴殿の言葉がその意味を持っていると聞こえたが、それで間違い御座らぬか』
忠勝は表向きには徳川家と結城家の間には緊張感が漂っていると見せかけ、裏では一部の者だけが手を組んで事態を収拾する事を土屋左馬助が望んでいると思った。
徳川家を巡る状況は最悪の状況であり、誰かの助けが無ければやがては崩壊するとの覚悟を決めていただけに土屋左馬助が漏らした言葉の意図を正確に把握し、徳川家の安泰につなげるべく、真意を確認しようとした。
忠勝からの問いかけに土屋左馬助は表情を変えずに返答した。
『中務大輔様。何度も申し上げておりますが、某も吉田殿も結城家のみに忠を尽くす所存に御座います。申すに憚りがありますが、諸々の事情により当家はかつてない危機を迎えておるのが現状。ならばその原因を作り出した方に事を解決する為に手を貸すように申し出るのは当然の事だと理解しております。無論、結城家に手を貸すことを好まぬ方が居られるかも知れませぬが、それならば我等は結城家だけが生き残る方策を考え、行動に移すまで。当家存続の為ならば、我等は如何なる事をも厭わぬ覚悟でいる事をご理解頂きたく存じます。そして、当家の危機を回避する為に手を貸して下された方には、思わぬ出来事が起こるやも知れませぬ。それが何かは起って見なければわかりませぬ故に、これ以上の事は口に出来ませぬ』
忠勝は土屋左馬助の返答の内容を聞き思案した。
(家中で幕府の事を快く思わぬ者がいる故に表立って徳川家に手を貸すことは出来ぬが、裏では手を組む意思がある。手を組む事を望むならば、その証として結城家の危機を救う事を行動で示せという事か。幕府内で結城家の扱いを変えようとする者を儂と佐渡を使って排除させるのが土屋殿の目論見か……。徳川の御家が守れるならば受けても良いが、手を貸すとの言質が得られぬ以上は、迂闊に返答出来ぬ。だが、結城家の危機を回避する為に協力した者には思わぬ出来事が起こると申した。儂を謀るつもりならば土屋殿は余計な事を口にした事になるが、この御仁が吉田殿が同席しておる場で、そのような愚かな事をする筈がない。信じるか、疑うか。あとは儂の覚悟次第という事か)
忠勝は無言で土屋左馬助の返答の内容を自身が納得できるまで考え込んだ。そして、考えて結論を出した忠勝は土屋左馬助に返答した。
『土屋殿。貴殿の申された通り、この状況を作り出した者は相応の責任を取らねばならぬというご意見に同意致す。越前の御家は徳川家にとって大切な御一門。越前の御家に危機が迫っておるならば、その危機を回避する為に某は出来る限りの協力を致す。無論、某だけでは力不足である以上、佐渡や上様にも事情を説明し手を貸すように説得致す。まずは越前の御家の危機を回避する。さすれば貴殿達も安心して動けるはず。その際には心苦しいが某に御力を貸して頂くやも知れぬ』
忠勝は土屋左馬助の思惑に徳川家の将来を委ねる決断をした。ほんの僅かな可能性ではあるが土屋左馬助の発言には徳川家の危機に手を貸す意思が込められている事を察したからである。
まずは越前結城家に御家騒動が起こらぬように徳川家の重臣である自身と本多正信が目に見える形で協力をする。そして結城家の御家騒動の火種を消し去った暁には徳川家の危機を回避する為に手を貸してもらう。
結城家としては徳川家の危機を無視できるが、家中の騒動を未然に防ぐには忠勝や正信の協力が必要になる。その対価として徳川家の危機にある程度の助力をする。
土屋左馬助の発言と気配から、自身を謀ろうとしている思惑は見受けられない。そう判断した忠勝は申し出を受け入れる意思を明確に示した。
土屋左馬助は表情を崩す事無く忠勝に話しかけた。
『中務大輔様。亡き殿の葬儀は無事に終える事が出来ましたが、忠直様への正式な家督相続は未だ果たされておりませぬ。また亡き殿に御認めになられていた諸々の特権が忠直様にも御認めになられるか幕府から正式な回答を頂いておりませぬ。少なくともこの二点が明確に果たされぬ限りは我等を含めた結城家の家臣は安心して忠直様にお仕えする事が出来ませぬ』
土屋左馬助の発言に込められた意図を理解した忠勝は即座に返答した。
『土屋殿。家督相続と亡き中納言様に御認めになられていた諸々の権益については忠直様に引き継がれる。少なくとも某はそれが妥当であり、問題を起こさぬ事だと考えておる。この場で確たる返答は出来ぬが、急ぎ江戸へ戻り必要な手を打つ所存に御座る。某の目の黒い内は徳川家の御一門に不届きな真似をする事はさせぬ。事が成った際には貴殿に書状でお知らせする。いま少し時を頂きたい。貴殿の期待に出来る限り応えてみせる。本多家の存亡をかけてでも事を成し遂げる覚悟に御座る』
忠勝から期待していた回答を聞けた土屋左馬助は忠勝に書状が来る日を待ちわびていると返答して会談を終えようとした。
『中務大輔様。我等は忠直様を懸命に御支えして越前結城家が騒ぎを起こさぬように尽力致す所存に御座います。約束頂いた事が成れば、越前の御家は静けさを取り戻す事が出来まする。さすれば我等も安心して行動できるもの。書状が届く日を待ちながら死力を以て事に当たる事をお約束致します。あまり長くは持ちこたえる事が出来ませぬが』
忠勝は土屋左馬助の発言に期待と恫喝が含められている事を察して、急いで行動しなければならない事を理解した。
(長くは持ちこたえられぬか……。亡き伊豆守と同じ言葉を申すとは、これも何かの因果か。だが虚言ではなかろう。儂が迅速に行動せねば約定は反故にされるという事に偽りはなかろう。事が成就するかは、儂や佐渡の行動の結果と早さに掛っておると釘を刺したに相違ない。急いで江戸に戻り、上様や佐渡と話さねばならぬ。駿府での大御所様の葬儀の事も確認せねばならん。休む暇はあるまいな)




