文箱
慶長十二年 閏四月二十日 越前国
駿府城で徳川家康と対面する直前の結城秀康から急ぎ帰国を命じられた本多冨正は二十日の夜に越前に戻り、自邸の居室で秀康から受けた指示の事を思案していた。
(大御所様とのご対面の直前になって急ぎ国許へ戻れと下知を受けたが、某でなくては差配出来ぬ事とは何事であろう。重要な問題の解決を置き去りにして、殿が国許から駿府へ赴いたとは考えられん。殿が某に命じた差配という言葉には何か特別な意味が込められているのであろうか……)
主君である秀康は冨正に隠し事や偽りを述べた事が一度も無かった。だが、駿府へ赴いてからの秀康の言動は冨正にあきらかに何かを隠している事を感じさせた。何らかの事情によって自分に説明出来ないのかとも考えたが、二十年近く傍らで仕えた冨正に隠し事をする事は考えにくい。
(殿にお仕えして二十年近いが、殿が某に隠し事や偽りを申された事は只の一度も無かった。だが、明らかに駿府城で殿から下知を受けた時に何かを某に隠していると感じたのは事実だ。当家には殿のご信頼が厚く優秀な者は数多くいる。某がいなくとも大事が起きるとは考えにくいが、殿は某でなくては差配出来ぬと申された。殿が述べられた大事とは何事であろう)
駿府城から越前に戻るまでの間に、冨正は何度も秀康の下知に込められた意図を理解しようと考えたが帰国するまでその考えに答えが出る事はなかった。冨正は駿府へ赴いた後で何事かが発生したとも思ったが、秀康が問題を放置して駿府へ赴くことはあり得ないと考えた。
(殿が国許から駿府へ赴くまで何らかの問題が起きたとは考えにくい。やはり某に何らかの務めを残されたと考えるほうが良いかもしれぬ。とにかく明日、城に上って調べねば。殿の指示を受けて、某が駿府から戻るのを待っている者がおるかもしれぬ)
冨正は秀康からの下知を果たす事を考えていたが、秀康は身罷ったと感じていた。国許へ戻るように命じた時の秀康の表情と声色から、十一日で秀康に残された時間が尽きていたと覚悟していた。冨正は最後の下知を完璧に果たさねば、亡き主君に合わす顔が無いと思い詰めていた。
(駿府での殿の言動から、殿はおそらく身罷られたはずだ。明日は城で重臣達と協議して駿府へ使者を送り、大御所様とご対面された殿が江戸へ赴かれたのかを確認せねばならん。恐らくは殿は……。恐れ多い事ではあるが家督相続についても手配を進めるべきかもしれん。無事に忠直様が家督を相続されねば殿に顔向け出来ぬ)
翌日の早朝、冨正は城に上り、自身の執務する居室にて重臣達を集めて協議するべき内容を考え込んでいた。そして、考えにふけっていた冨正に取次の者が声を掛けた。
『伊豆守様。修理様が面会を求めておられますが如何いたしますか』
秀康から厚い信頼を受けている吉田好寛が早朝から自分に会いに来たことに微かな疑念を抱いたが、それだけ重要な案件かもしれないと思い直して、通すように答えた。
『お通しせよ』
少しの間をおいて、吉田好寛が声を掛けてきた。同じ秀康の家臣であるが冨正は家中でも最上位の重臣である為、好寛は冨正に部屋へ入る前に丁重に挨拶をした。
『伊豆守様、修理に御座います』
吉田好寛が来た事を知った冨正は部屋に入るように声を掛けた。
『修理殿、遠慮は無用に御座る。お入り下され』
冨正から声を掛けられた好寛は静かに襖を開けて部屋に入り、冨正の前に座った。
好寛は懐から書状を取り出して、冨正に差し出しながら質問をした。
『伊豆守様、これは殿より某にもたらされた書状に御座る。伊豆守様が国許に戻った際にこの書状を御見せし、今後の下知を仰げと書かれておりまする。また、殿の居室に様々な書状が入った文箱が置かれておるそうですが、伊豆守様以外の者には渡してはならぬとも書かれております。何故にこのような書状を某に送られたのかは理由がわかりませぬが、伊豆守様なら理由をご存じかと思い早朝にも関わらずご面会を求め申した。まずは書状の内容をご確認下され』
好寛から書状を受け取った冨正は静かに書状を手に持って頭上に掲げ、一礼してから書状を読みだした。
たしかに好寛の言った内容が書かれているが、文箱の事は秀康から何も聞かされていない。そもそも好寛に対して冨正に下知を仰げといった事柄が何かを知らない以上は迂闊に返答できない。
書状には好寛が言った通りの事が簡潔に書かれており、文箱の存在とその扱いが強調されていた。だが冨正は秀康から文箱の存在を聞かされていない為、今の段階では何とも答えようがなかった。但し好寛に秀康が何を命じたのは気になる為、好寛に秀康から受けた下知の内容を尋ねた。
『修理殿。某もこの書状に書かれている文箱の事については、殿から何も聞かされておらぬ故に今はお答えすることが出来ぬ。文箱についてはすぐに殿の居室に赴き、中を確認させて頂くつもりだが、その前に殿が修理殿に命じた事をお伺いしたい』
秀康の腹心ともいうべき冨正にすら内容を明かしていないことに好寛は軽い疑念を抱いたが冨正が四月一日より登城していない事を思い出し、疑い過ぎかと思い直して質問に答えた。
『殿の秘蔵する家宝の中から、関ヶ原で大御所様に敗北した者に所縁のある品を江戸の将軍家に託すつもりなので、その手配をせよと申されました』
冨正は好寛からの返答を聞き、嫌な予感がした。駿府での秀康との会話で江戸へ赴く時間の余裕が無い事を直接聞いている。だが、江戸へ送る家宝は西軍の者達に所縁のある品ばかりで幕府の者たちでは持て余すのではないかと思われる。秀康ならば当然理解しているはずだった。
『修理殿。殿の文箱にその品の扱いについて書かれた書状があるかもしれぬ故、江戸へ送るのはもう少しお待ち下され。某は殿が文箱に収めた書状の内容を確認致す。もし修理殿に殿が命じた事が書かれていたならば、即座にお伝えいたす』
好寛は冨正からの返答を待つことを了承して部屋から下がった。
そして冨正は秀康の残した文箱の中の書状の内容がひどく気になって仕方なかった。
冨正が感じた秀康の隠し事の詳細が書かれているかもしれないと思い、すぐさま秀康の居室に向かい、文机に置かれている文箱を手にした。
和紙に包まれ封として花押が書かれているため、注意深く観察したが文箱が開けられた形跡は無かった。冨正は文箱を手に持って居室に戻り、和紙を小柄で注意深く切り文箱を開けて中に収められている書状を確認した。
文箱の中には遺言として家臣に宛てた書状と他の大名に宛てた多くの書状が収められおり、特段おかしな点は無かった。家臣宛ての書状は秀康の遺言であり、他の大名に宛てた書状は生前の交誼を謝する一種の礼状であると思われたからである。
だが、文箱に収められている多くの書状の中から本多伊豆守殿と書かれた書状を見つけた冨正は愕然とした。
いかに秀康の信頼が厚いとはいえ冨正だけに書状を書き残した事は不自然である。
(殿が某宛てに書状を残すとはどういう事だ。家中の事に関してならば殿は遺言を作成されている。某に何かを命じるにしても、遺言に書けば済むことのはず。某に宛てた書状を残された事は何か特別な事を為させようというのか……)
冨正は秀康の意図見抜けぬ為、とりあえず勤めを早めに切り上げ、自邸に戻って文箱の書状を全て急いで確認せねばならないと思った。秀康が身罷った事が冨正には予測出来ているが、駿府で下知を受けた際の秀康の言葉を思い出し、自分以外には対応できない事が書状に書かれているのではないかと焦りを感じた。
屋敷に戻った冨正は居室で秀康の文箱を開け、自分宛ての書状を両手に持ち深く一礼して静かに開いた。
書状には毒による暗殺を徳川家康が実行していた事、病から回復する事が困難な状況にあり、死を迎える前に自身の手で元凶たる父を討つ事、家康を討った事について幕府からの詮議の使者が来た際には、何も聞かされていないとの返答をすべき事、自身の死後は嫡男の忠直を支え、国許での仕置きについて重臣達と協議して欲しい事などが書かれていた。
そして、書状の最後に冨正が自身に二十年近く忠義を持って尽くした事を深く感謝し、駿府へ赴く真の目的を打ち明けずに欺いた事を詫びる言葉が綴られていた。
書状を読み終えた冨正は静かに瞑目して、深く溜息をつき唇を噛みしめた。
(殿が某に隠し事をしたのはこの為か……。まさか大御所様が殿の暗殺を企てていたとは思いもよらなかった。しかし、殿はどこかでお気づきになり、卑劣な手段で己を暗殺しようとした大御所様を討つ決意を為されたのか。故に某を含めた家中の者に咎が及ばぬように、本心を隠して駿府に赴かれたのか……)
秀康の無念、そして自身を含めた家臣への配慮を感じた冨正は己の至らなさを痛感し、拳を固く握り締めた。もっと秀康の周囲に気を配っていれば毒殺を未然に防げたかもしれない事や、秀康が駿府から越前に急いで帰国を命じたのが家康を斬るという行為に及び、結果として主従もろとも討たれる可能性があった事を危惧して、冨正の身の安全を保った事を痛感した。
秀康は最後まで家臣を大切にしたが、自分がその厚意に報いる事が出来なかった事を冨正は激しく悔やんだ。
(某がもっと殿の身辺に気を配っておれば、斯様な事にはならなかった。そう思えば殿から恨まれても当然だ。だが、殿は某の失態を責める事なく、全てを一人で抱えて大御所様と刺し違える事をお選びになった。幼い頃から傍らに仕えた某の身を案じて、全ての事を背負われて御一人で逝かれたのか……)
冨正は秀康の思いを感じ取り家中を纏め如何なる手段をもっても秀康の家を守り抜く決意を固めた。
(殿の御恩に報いるには、当家を幕府より守り抜かねばならん。どのような手段を使ってでも、たとえ奸臣と罵られてでも殿から託された事を為し遂げる。某は秀康様の家臣であり、徳川家の家臣ではない。当家を守る事を殿が望まれたならば、たとえ徳川家を滅亡させてでも守り抜いて見せる。そうせねば亡き殿に顔向けが出来ぬ……)




