交渉
『お主に全てを失う覚悟があるならば、力を貸してもよい』
自分以外誰も居ないはすの部屋から聞こえる声に秀康は理性を取り戻した。
驚きはしたが、秀康は自身で人を斬った事もあり、幾度も合戦を経験している。
人の死に怯える事はないが、「声」が人のものではないことに少し動揺する己の心を静めて、声の正体の事を考えた。
(この越前の地で死んだ者の声か? 越前は織田殿の手で多くの朝倉家臣が討たれ、一向門徒が殲滅された戦が起こった。織田殿に殲滅された門徒達が亡霊となって儂に話しかけたのであろうか……)
越前は、北陸の中でも戦国時代の初期から末期において多くの血が流れた国である。
朝倉家が越前を統治していたころから一向門徒との争いが絶えなかった。
隣国の加賀はかつては本願寺の勢威が盛んであり、越前を治めていた朝倉氏とは幾度も衝突を繰り返し、多くの犠牲者が出た事もある。
朝倉氏七代目当主の英林孝景は加賀の一向門徒との戦いを繰り広げただけでなく、応仁の乱で東軍に寝返り、守護の斯波氏から越前の守護職を奪い取った。その過程で多くの守護方の武将や一門を討ちとっている。
また、朝倉氏十代目当主の宗淳孝景は戦奉行の朝倉宗滴に加賀の一向門徒との戦いを継続させ、美濃へと兵を進めた事もあり、はやり多くの犠牲を払って越前を纏めた。
やがて、朝倉氏が織田家によって滅亡させられた際には多くの朝倉家臣、そして織田家の仇敵であった一向門徒達は越前の地から完全にが殲滅された。越前という土地は戦国時代でもかなり多くの犠牲者が出た国でもあり、越前という土地は無数の武者と一向門徒の血で染まっていると言っても過言ではない。
(死に際になって、亡霊の声を聞くとは不思議な事よ。いや、死にかけているから声が聞こえるのであろうか……)
微かに口を歪め、心の中で埒も無い事を思った自分を秀康は嘲笑した。
(亡霊が力を貸すか……。父上は徳川家を大きくするため、己が生き残る為に多くの者、敵も味方をも殺してきた。その父上は死ぬこともなく天下人となった。もし亡霊に力があるならば、父上はとっくの昔に呪い殺されているはずだ。儂は弱気になったことで、亡霊の声を聞いたのか)
間もなく死を迎える身では、亡霊など恐れる事もない。
瀕死の自分に声をかけて何の意味があるのか秀康は可笑しくて仕方無かった。
だが、次に聞こえた声は静まっていた秀康の心を再び揺り動かした。
『家康を討ちたいのであろう、お主はそう思っておらんと申すのか?』
『今のお主は太刀も持てぬ状態だ。だが、お主が望むならばその機会を一度だけ与える事が出来る。その代償としてお主の命が必要となるがな』
自分の人生を狂わせた父を自分の手で討つことが出来る。
ならば、死にかけた命を失っても良い。
敬愛する兄を死に追いやった父に報復する事が出来る。
ならば、たとえ地獄に堕ちようとも何の後悔もない。
「声」の内容は、自分の手で成し遂げたいと強く願った事である。
己の間もなく尽きる命を差し出すことなど容易い事ではあるが、逆にその条件が秀康の心に強い疑念を生じさせた。
間もなく死を迎える事が確実ならば、「声」が提示した条件は悪くない。だが、何か素直に納得出来ないものを秀康は感じていた。
(確かに今の儂に父を手にかける力は無い。だが何故、儂に父を討つ力を与えるなどと声をかけたのだ。儂は間もなく死ぬ……。何故儂のような瀕死の者ではなく実際に父を殺せる者に声をかけぬのだ?)
「声」が本当に徳川家康を殺める事を望むならば、自分のような死を間際にしているものではなく、もっと相応しい者を選ぶのが当然と言える。
にも関わらず、「声」は瀕死の秀康に力を貸すと持ちかけてきた。その真意が何かを知らねば迂闊に返答する事は出来ない。
秀康は「声」の思惑を看破しようとしばし思案した。