第1話
大講堂の二階、貴賓用バルコニーの最前列。
真紅の椅子に腰を下ろし、私は紙袋からキャラメルポップコーンをつまんだ。
さくっ。
焦がした砂糖のほろ苦さに、バターの香り。すかさず冷えたシャンパンをひとくち。
……最高。
金貨三枚を払った甲斐があるというものだ。
この席は、学園の奨学基金への寄付者に売り出された特別観覧席である。卒業生も購入できると聞いて、真っ先に申し込んだ。
階下の騒ぎがよく見える。階下からは、手すりの陰に座る私が見えにくい。脇の卓には、今夜のために用意した魔導投射機まである。
理想的だ。
ちなみに、金貨の出どころは半年前、ファビアン王太子殿下が我が家の玄関先で投げつけてきた財布である。
『手切れ金だ。二度と俺の前に、その地味なツラを見せるな』
財布の留め金が額に当たり、しばらく痣になった。
鏡を見るたび腹が立ったけれど、ようやく使い道が決まったのだ。殿下が見栄を張って金貨を入れてくれたことだけは、評価して差し上げたい。
「……美味そうな匂いだな」
すぐ隣で、低い声がした。
見上げると、濃紺のコートを着た男が立っている。黒髪に、灰色がかった青い瞳。襟元から覗く首筋には、古い傷が一本あった。
美形だ。
しかも、そこに立つだけで通路が狭く感じるほど背が高い。
「ここで合っているか? 案内係に、この席だと聞いたんだが」
男が示した札には、隣席と同じ番号が記されていた。
コンスタンツェ様から聞いていた、公爵家の招待客だろう。顔を合わせたら失礼のないように、と念を押されている。
「合っていますよ。こちらの椅子です」
「助かる」
腰を下ろした男が、また私の紙袋を見た。
分かりやすい人だ。
「キャラメル味ですけど、一握りいきます?」
「いいのか」
「ええ。一人だと、袋の底で固まったところを独占できる代わりに、食べきれないので」
「そこは残せばいいんだな」
そう言って、男は上から三粒だけつまんだ。
こちらの冗談に、妙に真面目な顔で付き合ってくれる。
「……悪くない。酒に合う」
「でしょう? 西通りのお店で並んだんです」
係の給仕が、男の前にもグラスを置いた。身なりも扱いも、どう見ても身分の高い方だ。それなのに、紙袋から食べることには抵抗がないらしい。
「俺はキリアンだ」
「シビルと申します」
「では、シビル。あれはいつからやっている?」
彼が顎で示した階下には、人垣ができていた。
今夜は王立学園の卒業記念パーティー。十八歳になった卒業生たちが、晴れて学園を離れる夜である。
本来なら踊っているはずの広間で、我が国の王太子が声を張り上げていた。
純白のマントには、金糸の刺繍がこれでもかと入っている。その腕にしがみついているのは、ピンクのドレスを着たコラリー男爵令嬢だ。
「つい先ほどからです。殿下が楽団を止めさせて、皆さんに集まれと」
「その割に、立ち位置が悪いな」
「あ、やっぱり? 照明の真下なので、頭のてっぺんばかり光ってますよね」
「それもあるが、裾だ」
長いマントが、殿下の踵に引っかかっていた。
「次に振り向いたら踏みますね」
「踏むな」
私たちは同時にグラスを口へ運んだ。
笑いを飲み込むのに、ちょうどよかった。
階下で、ファビアン殿下が一人の令嬢を指差した。
『コンスタンツェ・フォン・アルスハイム! 貴様の悪辣な所業、もはや看過できん!』
群青色の夜会服を着た彼女は、人垣の中央で背筋を伸ばしていた。
筆頭公爵家の長女にして、半年前に正式に決まった殿下の婚約者。今夜、誰よりも堂々としているのは、責められているその人だった。
『心優しいコラリーを階段から突き落とし、教科書を破り、ドレスに泥水をかけただろう!』
『もうおやめください、殿下。私のために、そんな……』
コラリーが顔を伏せる。
ついさっき、ロビーの柱の陰で目元に小瓶の中身を垂らしていたのを、私は見てしまった。
あれだけ下準備をしてきたなら、涙の出番を逃すわけにはいかないのだろう。
「下の令嬢とは知り合いか」
「コンスタンツェ様ですか? ええ」
「なら、ずいぶん落ち着いている」
紙袋を持つ手に目を落とされ、私は少しだけ笑った。
「大丈夫です。あの方は、泣かされに来たんじゃありませんから」
キリアンの視線が、卓の投射機へ動く。
それ以上は尋ねてこなかった。招待の際に、ある程度の事情は聞いているのかもしれない。
「それに私、殿下にはいろいろとお世話になっているんです」
「世話?」
「一年前は教科書を排水路に捨てていただきました。お茶会では、頭から紅茶も。おかげで紅茶は、かけるより飲む方が美味しいと学びましたよ」
彼の手が、グラスを置く寸前で止まった。
「……あの男が?」
「ええ。取り巻きの皆様とご一緒に」
キリアンは笑わなかった。
怒っているのだと気づいて、むしろ私の方が戸惑った。こんな話をすると、たいてい相手は目をそらすか、殿下にもお考えがあったのだろうと言う。
「今も、何かされているのか」
「今はもう。コンスタンツェ様がついていてくださいますし、学園も今日で卒業ですから」
「そうか」
彼は私の額へちらりと目を向けた。古い痣など、とっくに消えている。
なぜかそこがむずむずして、私は前髪に触れた。
「今日は、いい日になる予定なんです。ここで楽しくお酒を飲んで、すっきりして帰るんですから」
「予定通りにいくといいな」
「いかせますよ。金貨三枚も払ったんです」
今度は、彼も笑った。
口元の笑みだけで、険しかった顔がずいぶん変わる。
『よって、今この時をもって貴様との婚約を破棄する! 俺の真実の愛は、コラリーただ一人だ!』
広間が静まり返った。
コンスタンツェ様が扇子を開く。顔を上げ、一瞬だけこちらを見た。
扇子で左の肩をひとつ叩く。
打ち合わせ通り。準備の合図だ。
私は紙袋を膝に置き、起動キーを差し込んだ。
半年かけて待っていた瞬間なのに、指は驚くほど素直に動いた。
「さあ」
鍵を回す。投射機の内側に、小さな灯がともる。
「その続き、ぜひ皆様にも見ていただきましょうか。殿下」




