第七十五章:張飛は追撃を止め、敵の補給拠点を丸ごと奪った
曹操軍の中央が退いたと聞き、張飛は馬を走らせようとした。
しかし龐統が道を塞いだ。
「追うなら敵の背ではなく、敵の腹を追ってください」
張飛は目を丸くした。
「腹だと?」
龐統は敵の補給拠点を指した。
敵の兵は逃げても、食料車はそう速く動けない。
孔明は頷いた。
「そこを押さえれば、明日の戦は起きません」
俺は補給拠点の占領後に必要な人員を計算した。
穀物は奪えば終わりではない。
腐敗していないか、誰のものか、運べる量かを確かめる必要がある。
さらに近くの村から強制徴発した品があれば返す。
張飛は俺の説明を聞き、「戦より面倒だな」と唸った。
「勝った後の方が長いんです」
俺が言うと、彼は豪快に笑った。
工房では、荷車を素早く修理するための交換部品を揃えていた。
車輪の寸法を何種類かに絞り、部品の箱に印を付ける。
職人の親方は「同じものを作るのはつまらん」とぼやいたが、壊れた車が短時間で戻るのを見て考えを変えた。
「これなら敵の車も直せる」
俺は頷いた。
戦場で拾うべきものは武器だけではない。
新しい補給拠点では、敵兵だった男が荷車の修理を申し出た。
腕の良い車大工だという。
張飛は疑ったが、俺は見張りを付けて仕事を任せた。
男は壊れた軸を直し、「これで村へ帰れますか」と尋ねた。
俺は即答できなかった。
戦が終われば帰れる道を作るのも俺たちの仕事だ。
龐統は男の仕事ぶりを見て、「勝者の仕事は、敵を減らすだけではない」と言った。
張飛が補給拠点の門前で名乗りを上げると、守備兵は門を固く閉ざした。
背後の街道には関羽の旗が現れ、龐統の使者が「武器を置けば命は保証する」と告げる。
守備隊長は長い沈黙のあと門を開いた。
張飛は槍を構えず、まず負傷者を外へ運ばせた。
倉に入った農夫たちは、袋に押された村の印を見つけて足を止めた。
「あれはうちの冬麦だ」
ところが兵糧係は「敵から奪った物資を勝手に渡せば、こちらの兵が飢える」と遮った。
農夫の一人が拳を握る。
張飛が怒鳴りかけたとき、俺は倉の扉に残っていた徴発の日付を示した。
「まず持ち主を確かめよう。軍の物と村の物を混ぜたままでは、誰も納得しない」
袋を開くと、湿った麦や虫の入った麦もあった。
俺たちは農夫と兵糧係を同じ秤の前に立たせ、村ごとの印、量、傷み具合を確かめた。
兵糧係が「返す分を運ぶ車がない」と言うと、張飛は奪った敵の荷車を指した。
「それなら、今ここにあるだろう」
元敵兵の車大工が壊れた軸を直し、農夫たちが荷を積む。
張飛は老婆に道を譲り、袋を肩に担いだ。
「礼はいい。冬を越せ」
老婆は何度も頭を下げた。
だが全員が喜んだわけではない。
村の印が消えた袋を前に、二人の農夫が自分の物だと言い争った。
俺が判断に迷うと、倉番だった少年が口を開いた。
「その袋は、雨の日に三つの村から集めた麦を詰め直したんです」
俺たちは袋を無理に分けず、村の代表と後日配分を決めることにした。
勝者がその場で正しさを決めつければ、また誰かの麦を奪うことになる。
夕暮れ、村へ向かう荷車の列を張飛が見送った。
俺が「敵を追わずに正解でしたね」と言うと、彼は鼻を鳴らした。
「馬で追えば半日だ。あの老婆の歩幅に合わせる方が、よほど難しい」
龐統はその言葉を聞き、珍しく声を上げて笑った。
補給拠点を引き継いだ夜が明けると、俺は穀物の袋を一つずつ開けた。
見た目が立派でも湿っているものがあり、古い袋には虫がいた。
使える分と使えない分を分けると、期待したほどの量は残らなかった。
張飛は「奪ったのに減ったぞ」と不思議そうにした。
俺は「食べられないものを数に入れても、兵の腹は満ちません」と答えた。
張飛はしばらく考え、「なるほど、敵の記録も当てにならんな」と笑った。
その日の夕方、元敵兵の車大工が修理した荷車が走り出した。
軸はきしまず、車輪は真っ直ぐ回る。
張飛は大工の肩を叩き、「腕は確かだ。村へ帰ったらこの仕事を続けろ」と言った。
男は目を赤くした。
俺はその姿を見て、兵器や食料と同じくらい、働く場所を守ることも大切なのだと思った。
倉を守っていた敵兵の中に、まだ髭も薄い少年がいた。
張飛が近づくと少年は槍を落とした。
「俺はここで死ぬのか」
張飛は大声を飲み込み、「死ぬなら腹いっぱい食ってからにしろ」と言って俺の方へ押し出した。
俺は温めた雑穀粥を渡した。
敵の倉から奪った穀物で敵兵を食べさせる。
妙な話だが、その夜、少年は倉の隠し通路を教えてくれた。
倉を守っていた敵兵の中に、まだ髭も薄い少年がいた。
張飛が近づくと少年は槍を落とした。
「俺はここで死ぬのか」
張飛は大声を飲み込み、「死ぬなら腹いっぱい食ってからにしろ」と言って俺の方へ押し出した。
俺は温めた雑穀粥を渡した。
少年は匙を握りしめ、「家に帰る道は残っていますか」と聞いた。
龐統が地図を開くと、故郷へ続く橋はまだ焼けていなかった。
夜、荷車を修理した車大工は少年の隣に座った。
敵兵だった二人が、村へ戻ったら何を作るかを話している。
車大工は「畑の車輪だ」と答え、少年は「俺は橋を直す」と言った。
張飛は聞こえないふりをして、二人の椀に麦を足した。
翌日、倉の門には村へ帰る者のための通行札が並んだ。
俺はその列を見て、今日の勝利がまだ終わっていないことを知った。
翌朝、返還する麦を積んだ荷車が村の入口で止まった。
橋の板が一枚抜けていたのだ。
敵軍は撤退の際に踏み板を外していたらしい。
車大工は倉から持ち出した余り板を測り、張飛に釘を頼んだ。
「俺が打つ」と張飛が金槌を握ったが、一打目で釘が曲がった。
農夫たちが吹き出す。
「槍より難しいか」
張飛はむきになり、車大工から正しい打ち方を教わった。
やがて荷車が橋を渡ると、村の子供たちが走って迎えに来た。
村長は麦を受け取っても、すぐには倉へ運ばなかった。
「隣村の者がまだ帰っていない。あの家の分も守っておきたい」
俺は頷き、張飛に顔を向けた。
張飛は腕を組み、「勝手に使うなよ。あいつらが戻ったら、俺が運んだと伝えろ」と言った。
村長が笑うと、張飛はそっぽを向いた。
俺は敵を追うはずだった将軍が、今は帰らぬ農夫の麦を心配していることに胸が熱くなった。




