第百二十章:天下を統一した後に、最後に作りたかったもの
天下統一の詔が出た夜が明けると、俺は城の厨房で焦げた鍋をこすっていた。
工房の転用案には、予想外の反対もあった。
鍛冶職人の若者が、槌を置いて言った。
「武器なら国が買ってくれた。農具を作っても、貧しい村には金がない」
俺は返事に困った。
善意だけでは工房の火を絶やしてしまう。
孔明は各郡が必要な農具をまとめて発注する案を出し、龐統は「壊れたら直せるよう、図面を村に残せ」と付け加えた。
魏延は水路工事で使う鍬の数を数え、馬超は西方の商人が求める車輪の寸法を調べた。
若い職人は試作品の鍬を握り、土に差し込んだ。
柄がすぐに抜けてしまう。
「失敗だな」と俺が言うと、彼は初めて笑った。
「武器でも、一度でうまくいったことはありませんよ」
戦を終わらせるだけでは足りない。
平和を続けられる仕事を作る。
その難しさが、少し嬉しかった。
昨日までなら、ここには戦勝を知らせる伝令が駆け込み、誰かが兵糧の不足を叫び、別の誰かが荷車の修理を頼みに来た。
ところが今日は、鍋の底をこする音がやけに大きく聞こえる。
「おい、お前。こんな日に何をしている」
振り返ると、張飛が戸口に立っていた。
祝いの酒を飲みすぎたのか、いつもより声がかすれている。
「昨夜の宴で焦げついたんです。放っておくと次の料理がまずくなります」
「天下を取った男の仕事が鍋洗いか!」
「天下を取ったのは劉備様ですよ。俺は飯を作っただけです」
張飛は一瞬口を開け、それから腹を抱えて笑った。
「ならば、俺も手伝おう。天下一の鍋洗いを見せてやる!」
その大きな手に小さな布を渡すと、彼は鍋を割りそうな勢いで磨き始めた。
慌てて力を抜くよう頼む。
戦場では頼もしい豪傑も、厨房ではまだ新兵だった。
昼前、劉備に呼ばれて政庁へ向かった。
広間には孔明と龐統、関羽、それに各地から集まった役人たちがいた。
壁に掛けられた地図からは、敵味方を分ける赤い印が外されている。
かつて国境だった線だけが、薄く残っていた。
「そなたに褒美を与えたい」と劉備は言った。
「領地でも官位でも、望みを申せ」
俺は答える前に、広間の隅に積まれた報告書を見た。
戦が終わっても、飢えは終わっていない。
焼かれた村、耕す者を失った田畑、冬を越す種籾のない家。
天下を一つにすることと、その天下の人間が明日食べられることは、別の仕事だった。
「でしたら、お願いがあります。国じゅうの厨房と畑を、見に行かせてください」
「厨房と畑?」
「軍で試した保存食や共同炊事を、村でも使えるようにしたいんです。兵器を作っていた工房には、農具や水車の部品を作ってもらいたい。まずは、腹をすかせる子供を減らしたいんです」
劉備はしばらく黙っていた。
やがて椅子から立ち上がり、俺の前まで歩いてくる。
「そなたが最初に我らへ持ってきたのも、勝利ではなく温かな飯だったな」
「はい。あのころは、俺自身が腹をすかせていました」
「では、それを褒美としよう。必要な人員と予算は孔明に相談せよ。ただし、民から奪ってはならぬ」
孔明が静かに頭を下げた。
「倉庫の記録台帳籍を照らし合わせましょう。足りない地域を先に知ることが肝要です」
龐統は笑って言った。
「書類だけでは分からぬ。腹をすかせた者は、役人の前で『足りている』と答えることもある。私も何村か回ろう」
俺は二人に礼を言った。
臥龍と鳳雛を、戦ではなく炊き出しの計画に巻き込む日が来るとは思わなかった。
最初に訪れたのは、川沿いの小さな村だった。
戦で堤が傷み、田には泥が入り込んでいた。
村人たちは蓄えを少しずつ取り崩して暮らしている。
役人の記録では「食料あり」となっていたが、実際には種として残した穀物まで食べ始めていた。
俺は村長に頼み、空き家の庭に大鍋を据えた。
持ち寄った麦と豆、乾かした野菜を煮込み、少しの塩で味を整える。
兵のために工夫した、燃料を節約できる蓋付きの竈も持ち込んだ。
湯気に誘われ、子供たちが集まってきた。
「これ、兵隊のご飯?」
一人の少女が尋ねる。
「昔はね。でも、今日からは君たちのご飯だ」
少女は椀を受け取り、一口すすった。
熱さに目を丸くし、それから小さく笑った。
その顔を見て、俺は胸の奥が痛くなった。
転生してこの時代に来たばかりのころ、食べ物を手に入れるだけで精いっぱいだった。
あのとき誰かが温かな椀を差し出してくれていたら、どれほど救われただろう。
夕方、関羽が荷車を率いて到着した。
積んでいるのは槍でも矢でもない。
鍬の刃、鋤、替えの車輪、井戸を直すための縄だった。
「戦で鍛えた鍛冶師たちが作った」と関羽は言う。
「刃の形は農夫に確かめてもらった。武具と同じつもりで作っては役に立たぬからな」
俺は一本の鍬を持ち上げた。
柄の握りが手になじむ。
金属の量を増やすより、使う人の腕を疲れさせない形にする方が難しかったという。
「関羽殿、これなら畑が起こせます」
「敵を倒すより時間はかかろう。しかし、こちらの方が長く残る」
その夜、張飛は村の男たちと堤の補修に加わった。
大声で指図していたかと思うと、誰より先に泥の中へ飛び込んでいる。
子供たちが笑うと、彼は顔をしかめた。
「笑うな! この泥は敵の騎兵より手ごわいぞ!」
夜が明けると、村人たちは彼を「泥だらけの将軍」と呼んだ。
張飛は文句を言いながらも、少し嬉しそうだった。
数日後、孔明から新しい仕組みの案が届いた。
村ごとに収穫と備蓄を記録し、不作の地域には近隣の余剰分を運ぶ。
倉庫を一か所に集めず、洪水や火事で全てを失わないよう分けて置く。
軍で用いた伝令網は、穀物の不足や疫病の知らせを運ぶ道へ変える。
龐統はその案に赤い文字を書き足した。
『紙に書かれた数字だけを信じるな。
年に一度は、役人ではない者にも鍋の中を見せよ』
俺は思わず笑った。
二人の考え方は相変わらず違う。
それでも、目指すところは同じだった。
火薬を扱っていた工房も訪ねた。
職人たちは戦が終わり、自分たちの仕事がなくなるのではないかと不安がっていた。
俺は作業台に、古い荷車の軸受けと壊れた水車の模型を並べた。
「次は、これを直してほしい」
「武器ではないのですか」
「武器を作る技術で、暮らしを支える道具を作りたい。壊れにくい車輪があれば食料が届く。水車が回れば粉をひく手間が減る。みんなの腕が必要なんです」
年配の職人が軸受けを手に取り、指先で回した。
「兵器より、こちらの方が長持ちさせるのは難しそうだ」
工房の前で、張飛が新しい大鍋を見つけた。
「これも兵糧用か?」
俺は首を振った。
「学校の昼飯用です」
孔明は児童の人数を数え、龐統は献立の偏りを指摘し、二人はまた真顔で言い争いを始めた。
関羽が呆れ、趙雲は子供たちに椀を配り、馬超は薪を運び、黄忠は火加減を見て、魏延は壊れた椅子を直した。
張飛は誰より先に味見をしようとして、子供に「順番!」と叱られた。
俺は笑った。
幼いころ、こんな食卓があるとは思えなかった。
戦で得た知恵が、今日の昼飯を温めている。
それで十分だった。
「だから、頼みに来ました」
職人は笑い、仲間に声をかけた。
工房の槌音は、翌日から別の形で鳴り始めた。
季節が一つ巡るころ、最初の村へ戻った。
壊れていた堤には草が根づき、畑には若い麦が伸びていた。
共同の竈は村人たち自身の手で改良され、雨の日でも煙が逆流しないよう屋根がつけられている。
俺が教えたことより、彼らが工夫したことの方がずっと多かった。
あの少女が走ってきた。
両手には小さな包みがある。
「これ、食べて!」
中には麦と豆を練って焼いた、少し硬い菓子が入っていた。
乾燥させれば数日持つという。
少女の母親が、俺たちの携行食を見て考えたらしい。
かじると、香ばしい味がした。
「うまいな」
「本当?」
「本当だ。俺の作ったやつより、ずっとうまい」
少女は胸を張った。
俺は作り方を教えてもらい、書付の空いた頁に書き込んだ。
今度は俺が教わる番だった。
都へ戻る道で、遠くの山に夕日が沈んだ。
俺はこの世界で火薬を作り、戦を助けた。
孔明と龐統はそれを策に変え、関羽と張飛は命を懸けて道を切り開いた。
劉備は最後まで、民のために天下を治めると誓った。
だが、俺が最後に作りたかったものは、どんな兵器よりもありふれたものだった。
明日も飯が食えるという安心。
子供が、空腹ではなく遊び疲れて眠れる夜。
戦に勝った英雄の名前を知らなくても、笑って暮らせる村。
都の門が見えたころ、炊事場から夕餉の煙が上がった。
俺は荷車を降り、袖をまくる。
「さて、今夜は何を作ろうか」
天下を統一しても、明日の献立は誰かが考えなければならない。
そして俺は、その仕事が何より好きだった。
――完――




