第百十章:孫権の使者は、江東の川を渡るなと告げた
江東から来た使者は、最後に一枚の布を差し出した。
そこには川で亡くなった船頭たちの名が縫われていた。
「北の兵が渡るなら、この名を踏んで渡ることになる」
張飛は何か言いかけ、黙った。
劉備は布を畳まずに受け取り、翌日の軍船の出航を止めた。
兵の中には不満を漏らす者もいた。
だが俺は、川を越える速さよりも、あの名を見てなお渡る理由があるのかを考えるべきだと思った。
孫権の使者は、祝いの席にふさわしくない顔をしていた。
「江東の民は、北の勝者に従うために戦ってきたのではありません」
劉備は酒を勧めず、席を立つこともせず、その言葉を受け止めた。
曹操との戦いが終わっても、天下はまだ一つではない。
赤壁で共に戦った孫権には、江東を守る誇りと理由があった。
使者が帰ったあと、張飛が机を叩いた。
「兄者、今なら一息に渡れる!」
関羽は首を振る。
「水軍は陸の軍と違う。敵地で船を失えば退く場所もない」
孔明は川沿いの城を示した。
「孫権は渡河地点を守るでしょう。正面の勝負を求めれば、こちらの勝ちを遅らせることができます」
龐統は笑わなかった。
「使者の怒りは本物です。ですが、江東の商人は戦を望んでいない。そこに道があります」
俺は使者の帰路に同行した船頭の話を聞いた。
江東では川の関所が増え、塩と豆の値が上がり、船を動かす者が徴発されているという。
戦う前から暮らしは傷んでいた。
俺は劉備に提案した。
「江東に向けて、軍の食糧を売りつけるのではなく、民間の取引を再開できませんか。こちらの麦を安く流せば、孫権の兵まで食べさせることになります。それでも、川の両岸で飢える人を減らせます」
劉備は即答しなかった。
しばらく窓の外を見て、「敵の兵も民の子だ」と言った。
その夜、俺たちは商船を守るための通行証を作った。
孔明は軍事情報の流出を防ぐ検査手順を、龐統は商人が検査に嫌気をささない順番を決めた。
俺は水濡れしても読めるよう、竹札に刻む文字を少なくした。
試験的に渡した麦袋の半分は雨で湿った。
縄の結び方が悪かったのだ。
俺は工房の職人を呼び、油を薄く塗った布と二重の袋を試した。
完全な防水ではないが、船底の水しぶきには耐えた。
江東へ戻る使者に、劉備は一通の返書を渡した。
「川を渡るなという願いは聞いた。だが、川の両岸の民が飢えることは見過ごせない。まず商いの道を開こう」
使者は困った顔をした。
「それでは、我が主が戦を避けたと見られます」
龐統が静かに答えた。
「避けるのではない。勝つべき相手を飢えに変えるのです」
俺はその言葉を、作戦会議の記録には書かなかった。
代わりに、最初の麦船が何袋を無事に届けたかを書くつもりだった。
夜が明けると、商人の女が役所へ来た。
通行札を受け取ったものの、字が読めないという。
「夫がいれば読めたんだけどね」と笑う顔が寂しかった。
俺は札に麦の絵を刻むことを思いついた。
穀物を運ぶ船、魚を運ぶ船、薬を運ぶ船で印を変える。
孔明は偽造を心配したが、龐統が「印の位置と数を決めればよい」と助け舟を出した。
試作品を渡すと女は何度も裏返し、「これなら息子にも分かる」と言った。
俺たちの戦いは、地図に描かれた城だけではなく、こんな小さな不便とも向き合うことになる。
夕方には渡し場の倉庫を見回った。
湿った麦は放っておくと臭いが変わる。
袋を開き、傷んだものを分け、床に木の台を置く。
兵は地味な仕事だとぼやいたが、俺は「明日食べる麦を守るのも軍の仕事だ」と答えた。
一週間後、最初の商船が戻った。
麦は売れたが、江東の塩はまだこちらへ届かない。
関所の役人が許可を渋っているという。
龐統は急がず、船頭に礼金ではなく正規の運賃を払った。
「裏金で開いた道は、裏金が切れれば閉じます」
俺は控えに運賃を記した。
小さな取引が続くことの方が、一度の大勝利より難しい。
港の帳場には、北から来た商人と江東の船頭が向かい合っていた。
どちらも「通行を認めろ」と言うのに、相手の名を聞こうとしない。
俺は二人の前に同じ麦の袋を置き、「中身が腐れば、どちらの旗でも腹は膨れません」と言った。
船頭は鼻で笑ったが、袋の口を開けて湿り具合を確かめた。
使者が去った後、俺は港の桟橋で古い縄を引きちぎった。
濡れた縄は表面だけ乾いていても芯が腐る。
船大工の親方は「川を知らぬ軍が一番先に負けるのは、敵ではなく水だ」と言った。
俺は船の食料庫を見せてもらった。
乾いた麦袋の下に水がたまり、魚の塩漬けの樽は片側へ傾いている。
そこで床にすのこを敷き、樽を左右均等に固定する。
兵器の工房で余った金具を流用したが、船大工は「重すぎる」と却下した。
結局、軽い木栓と縄を組み合わせる方が良かった。
夕方、趙雲が護衛した漁師の一家が戻ってきた。
孫権側の見張りは厳しいが、村人は戦を望んでいないという。
俺は漁師に温かな魚の汁を渡した。
彼は椀を両手で抱え、「川は境目でも、魚は両側へ泳ぐ」と言った。
その一言を、俺は孔明に伝えた。
孔明は作戦図の長江を指でなぞり、龐統は「使者の脅しを、そのまま答えにしてはいけませんね」と言った。
俺たちが守るべきものは、どちらの岸にもあった。
劉備は使者が残した通行条件を机に広げた。
「兵を通すなというのは分かる。だが薬を積んだ船まで止めるのか」
俺が返答に迷うと、孔明は「その違いを明文化すればよい」と筆を取った。
龐統は「条文より先に、江東の港で誰が困っているか聞きましょう」と言った。
二人の策は、今夜ばかりは同じ方向を向いていた。
夜が明けると、通行札を確かめるために現場へ出た。
昨日の約束が今日も守られているか、記録上の数字と目の前の景色を比べる。
麦袋のそばには、まだ片づけられていない道具が残っていた。
兵は先へ進みたがったが、俺は手を止めさせた。
「次にここを使う人が困る」
若い兵は不満そうにしながらも、道具を揃え、壊れたものを別にした。
しばらくすると船頭のことを知る者がやって来て、俺たちのやり方の間違いを教えてくれた。
俺は礼を言い、作業をやり直した。
正しいつもりで進むより、間違いを教えてもらえる方がありがたい。
「これを見てください」と俺は川港の配給を示した。
孫権の使者との対面で使うつもりだったが、渡し船を失った商人には別の使い道があった。
俺が驚くと、相手は当然のことのように手順を説明した。
戦場を知る者の知恵は、机上の図面より速く欠点を教えてくれる。
俺は図面の余白にその言葉を残した。
俺は孫権の使者との対面の経過を振り返り、川港の配給が誰の手から誰の手へ渡ったのかを確認した。
渡し船を失った商人の名前も記録した。
手順を決めた人間だけでなく、実際に働いた人間の声を次の準備に生かすためだ。
港の試験で、改良した船の食料棚が大きく揺れた。
木栓が抜け、乾燥麦の袋が一つ川へ落ちた。
船大工は「陸の工房の知恵だけでは駄目だ」と言い、俺は素直に謝った。
縄の結び目を変え、荷の重さを左右で測り直す。
そこへ江東からの使者が現れ、船を見て鼻で笑った。
「それで我らの川を渡るつもりか」
龐統は微笑み、「渡る前に、川を知る者に教わりたいのです」と返した。
相手の顔から笑みが消えた。
戦を避ける言葉にも、技術を磨く手にも、まだ続きがあった。
試作した船底の補強板は、乾いた陸では見事に収まった。
ところが川に浮かべると、板の端が水を吸って膨れ、船大工が慌てて楔を抜いた。
「俺の寸法が悪かった」と言うと、老船大工は首を振る。
「木は生きてる。図面どおりに息をしねえ」
俺は濡れた板を持ち帰り、乾燥させた材との違いを記録した。
夜更け、港の灯が一つずつ消えた。
俺は商船の出航予定を白紙に戻し、代わりに薬と食料だけを載せる小舟の案を書いた。
戦を急ぐ者には遠回りに見えるだろう。
それでも、ここで最初に守るべきなのは船の数ではなく、向こう岸に暮らす人間の命だった。
孫権の使者は、こちらが川を渡らないという一文だけでは納得しなかった。
「明日の将が同じ約束を守る保証は?」
劉備は即答せず、軍の船を一定期間上流へ退かせること、民間船の通行を双方で記録することを提案した。
張飛は「先に引くのか」と不満を漏らしたが、関羽は「先に刃を納めるのも勇気だ」と諭した。
俺は自分たちの側が約束を破った場合の補償まで書き加えた。
夜が明けると、試験的に通した小舟が江東側で足止めされた。
俺は交渉が失敗したと思ったが、理由は荷の封印が違っていたことだった。
孫権側の船頭とこちらの船大工が、縄の結び方を巡って言い争う。
龐統は二人に新しい共通の印を作らせた。
争いの種が一つ消えたとき、使者は初めて湯を飲んだ。




