第百四章:張飛は曹操軍の中央軍を突破した
勝利のあと、張飛は新しい豆餅を十枚も平らげた。
炊事係が「将軍の分は三枚です」と告げると、「俺は十人分働いた!」と胸を張る。
龐統は「では十人分の洗い物を」と木桶を差し出した。
張飛が口を開けたまま固まり、孔明が珍しく声を立てて笑った。
やがて張飛は袖をまくった。
敵の盾より、鍋の焦げを落とす方が手ごわいらしい。
炊事場では張飛が、負傷した若い兵の分まで粥をよそおうとして叱られていた。
「食えぬ者の分を俺が食ってどうする!」と威張ると、若い兵が笑った。
「将軍、俺は右手を怪我しただけです。左で食べられます」
張飛は椀を持つ手を止め、無言で匙を差し出した。
孔明が「兵糧を減らす策は失敗でしたね」と言うと、龐統は「いえ、将軍を黙らせる策は成功です」と返した。
俺は吹き出し、張飛だけが最後まで不満そうだった。
曹操軍は中央の丘に精鋭を集め、劉備軍を迎え撃った。
張飛は先頭で槍を握り、「今度こそ俺の出番だ」と笑う。
孔明は彼に無謀な突撃を命じず、敵が自ら陣を開く瞬間を待たせた。
俺は中央の丘に足を運び、紙の上の計算と現実がどれほど違うかを確かめた。
担架を担ぐ若兵は最初、こちらの軍服を見るだけで身を固くした。
戦のたびに兵が来て、物を持っていくのを見てきたのだろう。
俺は兵に槍を下げさせ、まず水を頼んだ。
相手の返事を待つ間、誰も急かさなかった。
やがて少しずつ話を聞かせてもらえた。
どの道が雨でぬかるむか、どこに壊れた橋があるか、村では何が足りないか。
どれも将軍の地図には書かれていないことばかりだ。
俺は聞いたことを全部書き留め、孔明のもとへ持ち帰った。
孔明は一行ずつ読み、「これこそ軍を動かす地図です」と言った。
俺は嬉しいというより、見落とさずに済んだことに安堵した。
龐統は敵将が張飛を恐れる性格だと見抜き、張飛の旗を何本も別の位置に立てた。
敵はどれが本隊か判断できず、守備兵を移し続けた。
孔明はその揺れを見て、中央の守りが薄くなった場所を示した。
炊事場では温かな豆汁を試すことになった。
料理人は俺の説明を聞いて眉をひそめた。
「言うのは簡単だが、千人分となれば別だぞ」
その通りだった。
少人数でうまくいっても、大鍋では火が均一に回らず、器が足りず、運ぶ途中で冷める。
俺は作り方を押し付けるのをやめ、料理人の手順を横で見た。
鍋を動かす順番、薪を足す時刻、出来上がったものを先に誰へ届けるか。
そこには長年の経験があった。
試作の一回目は失敗し、二回目は塩気が強すぎた。
三回目でようやく兵が笑顔を見せた。
「これなら毎日でも食える」
俺はその言葉を信じすぎず、翌日の残り具合も記録した。
食の改善とは一度うまい物を出すことではなく、続けられる仕組みを作ることだ。
担架を試したとき、持ち手の角が兵の手に食い込んだ。
俺は布を巻こうとしたが、職人は「布は濡れる」と首を振った。
そこで木の角を丸く削り、握り方を変えた。
試しに俺自身が運ばれてみると、揺れがまだ大きい。
現場の失敗は恥ではない。
失敗を隠す方が、ずっと危ない。
俺は長距離行軍を終えた張飛隊に温かい豆汁と塩を含む麦餅を届けた。
疲れた兵に一度に食べさせず、休息と水分を取らせる。
新しい簡易担架も配り、負傷者をすぐ後方へ運べるようにした。
張飛の陣で、俺は壊れた靴底を山のように見つけた。
中央突破を担う歩兵は、前夜の移動で足を傷めていた。
「靴くらいで大げさだ」と張飛は言いかけたが、血のにじむ踵を見て黙った。
工房の革職人に残布を持ってきてもらい、足に当たる部分を二重にする。
靴を作り直す時間はない。
俺は布を巻く手順を兵十人に教え、その十人から全隊へ広めた。
張飛は一番不器用な兵の前にしゃがみ、自分で結び目を作ってやった。
開戦後、敵の中央は予想以上に堅かった。
張飛が槍を振るうたび、前の兵は退くが、後ろの列がすぐ埋める。
そこへ魏延が側面の浅い溝を見つけ、盾兵を誘導した。
張飛は一瞬だけ攻撃を止め、敵が押し返そうと前へ出たところを見て、斜めに踏み込む。
「押し合いなら負けん。だが今日は、通り抜ける!」
味方の旗が敵陣の向こうへ現れた時、俺はようやく息を吐いた。
突破の成功は勇猛さだけでなく、足元を守った何百枚もの布に支えられていた。
敵陣では敵の防塁が問題になっていた。
曹操の将も無能ではない。
こちらが変われば向こうも学ぶし、昨日通じた策が明日も通じるとは限らない。
だから龐統は相手の失敗を笑わなかった。
「人は負ければ考える。考える相手には、同じ答えを見せてはなりません」
孔明も同意した。
二人は意見が一致しているようで、考え始める場所が違う。
孔明は地形と兵の配置から考え、龐統は敵将が何を信じたいかから考える。
俺は二人の議論を聞きながら、必要な物資と運べる時刻だけを答えた。
できないことはできないと言う。
それが軍師の策を現実にする、俺の役目だった。
昼過ぎ、合図の煙が上がる。
張飛は真正面から見せかけの突撃をし、敵が左右に兵を寄せた瞬間、中央の狭い道へ隊を転じた。
関羽が側面を抑え、火薬の轟音が敵の再集合を妨げる。
張飛は敵の旗を奪い、丘の上に劉備軍の旗を掲げた。
張飛の突破は成功したが、先頭に続いた若い兵が谷へ迷い込み、戻れなくなった。
勝ち鬨の中で俺だけが人数の不足に気づいた。
張飛は槍を置き、すぐ引き返そうとした。
「俺の声について来たんだ。置いていけるか」
関羽が横道を押さえ、俺たちは炊事用の煙を合図に使った。
敵の目を避けるため、湿った薪で細い煙を三筋上げる。
夕闇の向こうから、同じ形の煙が返った。
張飛が丘から戻ると、兵たちは歓声を上げた。
だが彼は一番に負傷者の列を見た。
「置いてきた奴はいないな」
俺が頷くと、ようやく笑った。
張飛の豪快さは、弱い者を忘れないところで初めて本当の強さになるのだと思った。
張飛の槍が敵の盾を押し戻した直後、前列の兵が倒れた。
足を滑らせたのだ。
張飛は怒鳴る代わりに槍を横へ構え、味方が起き上がる時間を作った。
「俺の背を見ろ。急ぐな!」
魏延が敵の側面に回るまで、わずかな時間だった。
突破後、張飛は俺のところへ来て、包帯の残りを確かめた。
「勝ったら全部直ると思っていたが、そうじゃねえな」
俺は足を引きずる兵を見て頷いた。
勝利の旗は軽い。
帰り道を歩く足は重い。
勝ったあと張飛は「腹が減った!」と叫んだ。
俺が用意した麦餅を受け取ると、彼は隣の若い兵に半分を渡す。
「お前もよく走った」
その姿を見て、軍が強くなった理由は火薬だけではないと改めて思った。
救出された兵は張飛の前で泣きながら謝った。
張飛は怒鳴るかと思ったが、握り飯を差し出した。
「道を間違えたら腹が減る。食え」
兵が一口かじると張飛も隣に座った。
「俺も昔、兄者に叱られて逃げたことがある」
関羽が咳払いすると、張飛は慌てて口を閉じた。
若い兵の母親に宛てた短い手紙を、俺は預かった。
そこには「張飛将軍は怖いけれど、握り飯をくれた」と書いてあった。
張飛は読んで顔をしかめ、「怖いは余計だ」と言ったが、手紙が濡れないよう自分の懐から油紙を出した。




