第3話 橋の上の決着
グラヴォルの双角が石橋の上を一直線に迫っていた。勇者はその正面に立ち、退こうとしない。
聖女の背筋が凍った。
そんな。
あの怪物と、正面からぶつかるつもりなのか。
「勇者様! 避けてください!」
叫ぶ。
だが、勇者は動かない。
グラヴォルの双角が迫る。
あと数歩。
その瞬間。
勇者は右足を大きく踏み込んだ。
石畳が砕ける。
勇者の身体が、一気に前へ飛び出した。
「――ここだ!」
魔物の懐へ潜り込む。
そして、腰をひねり、全身の力を込めて拳を突き上げた。
ドゴォンッ!
轟音。
勇者の拳が、グラヴォルの顎を打ち抜いた。
「ギャアアアッ!」
魔物の巨体が宙へ浮いた。
そのまま大きく仰け反り、石橋の端まで吹き飛ばされる。
欄干が砕け散った。
獣の身体が、橋の外へ投げ出される。
しかし。
「――ッ!?」
グラヴォルは空中で身体をひねった。
巨大な前脚が、橋の縁へ食い込む。
爪が石を砕きながら、かろうじて巨体を支えた。
落ちない。
まだ、這い上がろうとしている。
「しぶといな」
勇者が眉を上げる。
聖女は橋の入口から、川下へ目を向けた。
眼下には激しい流れ。
その先には、大きな岩がいくつも突き出している。
あそこへ落ちれば、いくらグラヴォルでも無事では済まないだろう。
勇者も、ちらりと川下を見た。
「……なら、もう一押しだ」
右手を持ち上げる。
ぼろんっ
再び、灰色のちんちんが現れる。
獣の頭が橋の縁から持ち上がった。
黄色い目が勇者を捉える。
その瞬間。
「悪いな」
勇者の腕が閃いた。
バシィッ!
灰色の一撃が、魔物の鼻先を打つ。
「ギャウッ!?」
獣が反射的に顔を背けた。
橋を掴んでいた爪の一本が外れる。
だが、残る前脚で石の縁を掴み直し、グラヴォルは身体を引き上げようとした。
橋の上へ、巨大な顎がせり上がってくる。
勇者の右腕はまだ伸びたままだった。
今の一撃だけでも、相当な痛みがあったはずだ。
それでも引っ込めない。
勇者は右腕を腰の高さまで引き、左足を前へ出して身構えた。
グラヴォルが牙を剥く。
今にも噛みつこうとした、そのとき。
「これで終わりだ」
石畳を踏み砕く勢いで、さらに踏み込む。
腰を鋭く回転させ、その力を乗せた右腕を下から振り上げた。
グラヴォルのちんちんが、獣の顎を強烈に打ち上げる。
バゴォンッ!!
グラヴォルの頭が跳ね上がった。
「グガアアアッ!!」
橋を掴んでいた最後の爪が、石畳を削りながら外れる。
灰色の巨体が橋から離れた。
「……っ!」
勇者は奥歯を噛みしめたまま、右手のちんちんを引っ込めた。
強烈な痛みが走ったのだろう。
しかし、その目は落下していく魔物を捉えている。
聖女も橋の入口から身を乗り出し、川下を見つめた。
グラヴォルは空中で四肢をばたつかせ、必死に身体をひねっていた。
だが、もう足場はない。
そのまま。
轟ッ!
魔物は川の中に突き出た巨大な岩へ激突した。
激しい水飛沫が上がる。
川の流れに押された巨体が、岩の脇へ引っ掛かった。
聖女は息を呑んで見下ろした。
灰色の身体が動かなくなっている。
しばらく待っても、起き上がる気配はなかった。
「……終わった、のですか?」
誰かがつぶやいた。
勇者は川を見下ろしたまま、しばらく動かなかった。
そして、静かに息を吐く。
「……ああ」
勇者は振り返った。
口元に、いつもの余裕ある笑みを浮かべる。
「終わったな」
◇
「勇者様!」
聖女が駆け出した。
石橋を走り、勇者のもとへ一直線に向かう。
「お怪我はありませんか!?」
聖女は勇者の前まで来ると、鎧の焦げた肩を確かめた。
幸い、目立った火傷はない。
腕にも脚にも、大きな傷は見当たらなかった。
「大丈夫だ。心配するな」
「でも、あんな炎を浴びて……!」
「少し熱かったが、問題ない」
勇者は微笑んだ。
「君の前で格好悪いところは見せられないからな」
聖女はその顔を見つめた。
本当に、この人は。
どれだけ危険な目に遭っても、いつもこうなのだ。
「……格好悪くてもいいですから」
「ん?」
「どうか、無事に戻ってきてください。それが一番です」
勇者は一瞬、目を見開いた。
そして、穏やかに笑った。
「分かった。覚えておく」
聖女はようやく安堵した。
肩の力が抜ける。
そのとき、勇者がふと右手を持ち上げた。
「ところで、どうだった?」
「……はい?」
「さっきの戦いだ」
勇者は得意げに微笑んだ。
「俺のちんちん、なかなか見事だっただろ?」
「………。」
聖女は数秒黙った。
勇者は返事を待っている。
その表情は、心底誇らしげに見える。
「……そうですね」
聖女はできるだけ穏やかな声で答えた。
「確かに、とてもお強かったと思います」
「だろう?」
「はい。ただ……」
「ただ?」
「できれば今後は、もう少し普通の武器も使っていただけると嬉しいです」
勇者は少し考えた。
「そうだな。考えておく」
その返事に、聖女は小さく微笑んだ。
勇者は強くて、優しくて、頼りになる。
だからこそ。
もう少しだけ、普通の勇者でいてくれたら。
そんな願いを胸にしまいながら、聖女は勇者とともに橋を渡った。
◇
夕方。
町の宿屋で、勇者と聖女は夕食を取っていた。
川下の岩場に引っ掛かったグラヴォルの死骸は兵士たちが確認し、橋の修理も始まっている。
戦闘で石畳に散った汚物の片付けも進められていた。
橋の通行が再開するまでには少し時間がかかるだろうが、町を脅かしていた危険は去った。
宿屋の食堂には、二人のために用意された料理が並んでいた。
焼きたてのパン。
香ばしい肉料理。
新鮮な野菜の盛り合わせ。
そして、蜂蜜を使った甘い菓子。
「いい香りだな」
勇者が満足そうにうなずいた。
「頑張った甲斐があった」
聖女は微笑んだ。
「皆さん、とても感謝していましたから」
「ああ。あの子も無事だったしな」
勇者はパンをちぎり、口へ運んだ。
そのとき食堂の扉が開いた。
「あっ! 勇者のお兄ちゃん!」
昼間助けた少年だった。
母親に手を引かれ、嬉しそうに駆け寄ってくる。
「元気そうだな」
勇者が微笑む。
「もう怪我は大丈夫か?」
「うん! 聖女のお姉ちゃんが治してくれた!」
「それはよかった」
勇者は満足そうにうなずいた。
少年は目を輝かせ、身を乗り出した。
「ねえねえ! お兄ちゃん!」
「何だ?」
「あの魔物と戦ってたときの、あの武器!」
聖女の手が止まった。
少年は興奮した様子で続ける。
「灰色の、ながーいやつ! すっごく強かったね!」
「おお。よく見てたな」
「うん! 僕も欲しい!」
聖女は母親へ、そっと目を向けた。
幸い、母親は武器の正体に気づいていないようだ。
「……勇者様」
聖女は小さく声を掛けた。
「どうした?」
「できれば、あの武器の説明は……」
「ん?」
勇者が首を傾げる。
聖女は言葉を探した。
子どもの前で、あまり詳しく説明してほしくない。
けれど、そのまま正直に言ってしまうのも気が引ける。
「……もう少し大きくなってから、ということで」
勇者は少し考えた。
それから、ふっと笑った。
「分かった。君の判断に任せる」
聖女はほっとした。
勇者は少年へ向き直る。
「今は秘密だ。大きくなったら教えてやる」
「ほんと!?」
「ああ。約束だ」
少年が嬉しそうに笑う。
「やったー!」
聖女も微笑んだ。
少々心配な約束ではあるが、ひとまず今はこれでいいだろう。
少年と母親が帰っていく。
勇者はその背中を見送り、満足そうにパンを口へ運んだ。
「さて。未来の勇者が一人、誕生したかもしれないな」
「……そうですね」
聖女は窓の外を見た。
夕日に照らされた石橋が、静かに川を跨いでいる。
今日は本当に、いろいろなことがあった。
恐ろしい魔物。
命懸けの戦い。
勇者のあまりにも異常な能力。
けれど、町の人々は救われた。
少年も元気になった。
それが何より嬉しかった。
「明日もいい旅になりそうだ」
勇者が言った。
聖女は彼を見た。
「はい。そうですね」
そして、少しだけ笑った。
魔王城までの道のりは、まだ長い。
きっと、これからも驚かされることばかりなのだろう。
それでも。
この勇者となら、きっと大丈夫。
そんな気がした。
第一編・完




