第1話 勇者の第一球
「誰か! あの子を助けてくれ!」
石橋の向こうから、男の叫び声が聞こえた。
聖女が顔を上げると、一人の少年が橋を渡ってくるところだった。
十歳にも満たないだろう。小さな身体を必死に動かしているが、明らかに様子がおかしい。何度も背後を振り返り、泣きながら走っている。
その理由はすぐに分かった。
少年の背後に広がる森から、巨大な獣が飛び出してきたのだ。
狼に似た灰色の毛皮。馬を二回りは上回る巨体。頭部からは二本の太い角が湾曲して伸び、その先端が日の光を鈍く反射している。
獣は地面を一蹴りすると、信じられない距離を跳んだ。
着地した場所はすでに橋の上。
少年との距離が一気に縮まる。
「勇者様!」
「ああ」
隣にいた勇者が、肩のマントを外した。
「君はあの子を頼む」
「でも、あの魔物は……!」
「大丈夫だ。すぐ戻る」
振り向いた勇者が、軽く笑う。
整った顔立ちに、黒い短髪。涼しげな目元と落ち着いた物腰は、黙って立っているだけでも人目を引いた。
その青年が、聖女の返事を待たずに地面を蹴った。
石畳が陥没する。
巻き起こった風に法衣の裾を持ち上げられ、聖女は思わず片腕で顔を覆った。
次に見たとき、勇者はもう橋の中央にいた。
速い。
並の人間なら全力で走っても届かない距離を、たった数歩で詰めてしまった。
だが、相手の魔物も尋常ではなかった。
少年の背後まで迫ると、巨体を低く沈める。
次の瞬間、石橋が震えた。
獣が跳んだのだ。
逃げる少年の背中へ、巨大な牙が迫る。
あんなものに噛みつかれたら、子どもの身体などひとたまりもない。
「伏せろ!」
勇者の声が響いた。
少年が両手で頭を抱え、その場にしゃがみ込む。
飛びかかった魔物の口が少年へ届こうとした、まさにその瞬間。
勇者の右腕がしなり、轟音が鳴る。
何かが空気を切り裂いた。
聖女がそれを目で追えたのは、ほんの一瞬だけだった。
茶色い塊。
それが魔物の鼻先に着弾し、衝撃ではじけ飛ぶ。
「ギャウッ!?」
獣の頭が跳ね上がり、噛みつこうとしていた口が大きく逸れる。
飛びかかった勢いを抑えきれず、少年の脇を通り過ぎて石畳へ転がった。
勇者はその横を駆け抜けると、しゃがみ込んだ少年を抱き上げた。
「よく頑張ったな。もう大丈夫だ」
そして、再び跳んだ。
聖女が瞬きをする間に、勇者は目の前へ戻ってきた。
「膝を怪我している。頼めるか?」
「は、はい!」
勇者は少年をそっと下ろした。
泣きじゃくる小さな背中を聖女が支えている間に、勇者は再び橋へ向かおうとする。
「あの、勇者様」
「どうした?」
「先ほど投げたものは……」
「うんこだ」
実に爽やかな返答だった。
聖女は固まった。
もちろん、勇者のスキルについては知っている。
王宮で聞かされたときには、何かの冗談だと思ったものだ。
けれど、目の前の勇者が使えるスキルは本当に「うんこ」「おしっこ」「ちんちん」の三つだけだった。
しかも、本人はその能力を心から誇りに思っている。
「今のはいい球だった。狙いどおりだ」
勇者は満足そうに自分の右手を見た。
ああ、女神様。
聖女は思わず心の中で祈った。
すべてのスキルは、女神様から授けられる祝福。
授かった力をその見た目だけで蔑んではならない。それは女神教の信徒なら誰もが知っている教えだった。
分かっている。
分かってはいるのだ。
しかし、うんこが空を飛んで魔物の顔面に命中する光景を、どういう気持ちで受け止めればよいのだろう。
「じゃあ、行ってくる」
勇者が橋へ向き直る。
「勇者様、お気をつけて!」
「任せろ」
勇者は振り返らず、軽く手を挙げた。
◇
「城砕きの双角だ……!」
少年を町の兵士へ預けたところで、そんな声が聞こえた。
見ると、橋の警備を担当していたらしい壮年の兵士が、真っ青な顔で魔物を見つめている。
「あいつはグラヴォルだ! 間違いない!」
「グラヴォル?」
聖女が聞き返す。
「巨大な狼のような体に双角を持つ灰色の魔獣です。城門を砕くほどの怪力を持つっていう……!」
言いかけた兵士が、はっと顔を上げた。
「町の人間を逃がさねえと!」
兵士は部下へ怒鳴った。
「市場の連中を下がらせろ! 橋の入口を空けるんだ!」
他の兵士たちも、慌ただしく動き始めた。
聖女は少年の膝に手を添える。
擦りむいた傷を淡い光が包み、血が止まった。
「もう痛くないでしょう?」
「……うん」
「よかった。お母さんのところへ戻りましょうね」
少年を兵士に託すと、聖女は橋へ向き直った。
グラヴォル。
その名が示すとおりの魔物だった。
灰色の巨体が、石橋の上を縦横無尽に暴れ回っている。
そして、その真っ正面で戦っているのが勇者だった。
魔物の双角が唸りを上げて迫る。
勇者は片足で石畳を蹴り、横へ滑るように回避した。
すぐ脇を通り過ぎた角が欄干へ食い込み、厚い石壁を粉々に砕く。
勇者は崩れかけた欄干を踏み台にして跳躍した。
なんという動きだろう。
聖女には、もはや人間の戦いには見えなかった。
宙を舞った勇者が右腕を引く。
見慣れた投球姿勢。
「さて、次はこっちだ」
腕の輪郭がぶれ、勢いよく振り抜かれた。
乾いた破裂音にも似た音が、橋の上に響く。
投げられたうんこが、グラヴォルの左目に直撃した。
「グガアアッ!」
獣が吠える。
しかし、勇者の攻撃はそこで終わらなかった。
着地すると、手のひらに次の塊を生み出す。
今度は鼻先。
続いて右目。
いずれも、狙いを定めてから投げるまでが恐ろしく速い。
ただのうんこが、勇者の超人的な身体能力によって凄まじい速球と化している。
硬い弾丸のように魔物を貫くわけではない。
だが、命中するたびに激しく飛散し、目や鼻を汚された魔物はたまらず顔を振る。
それも、一度や二度ではない。
鼻に張りついたうんこを振り落とそうと、グラヴォルが頭を大きく振った。角の先が勇者を追い、砕けた欄干をさらに削る。
勇者は橋の中央へ踏み戻した。左足を据え、右手に生まれたうんこを耳の後ろへ引く。魔物が踏み込んでくる、その鼻先へ右腕を振り抜いた。
湿った破裂音に、獣の咆哮が重なる。
うんこを浴びた鼻が跳ね上がり、突き出された角は勇者の肩の上を通り過ぎた。勇者はその下をくぐり、魔物の横へ抜けている。
「まだ近づくのかよ……!」
若い兵士が槍を握り直した。聖女も橋へ出かけた足を止める。追おうとする獣の目元で、もう次のうんこが弾けていた。
グラヴォルの足が、町とは逆の方へ踏み出される。勇者はその鼻先を追い越すように回り込み、町側へ向かせなかった。
橋を渡ってきた風に、便臭が混じる。
聖女は口元へ袖を寄せた。隣の兵士も顔をしかめたが、槍は下ろさず、魔物から目を離さない。
「こっちへ来させるなよ……頼むぞ」
その声に聖女はうなずいた。袖の下で息を浅くしながら、橋の中央を見つめる。勇者の右腕はまた肩の後ろへ回っていた。
「す、すげえ……!」
隣にいた若い兵士がつぶやいた。
「あんな速さで動いてる魔物に、ほとんど外さず当てやがる……!」
聖女も息を呑んだ。
勇者は強い。
知っていたつもりだったが、改めて見せつけられると圧倒される。
その立ち姿も、動きも、実に見事なものだった。
ただし、投げているのはうんこである。
そこだけが、どうしても引っ掛かった。




