第29話
道場の広間に足を踏み入れると、湯気と共に立ちのぼる濃厚な香草と肉の匂いが、鼻腔をくすぐった。
「ほらほら、遠慮しないでガンガン食ってよ! 鍋はまだまだ山ほどあるんだからさ!」
おさげ髪を揺らしながら大鍋を抱えて現れたクロエが、威勢のいい声を張り上げる。手際よく木皿へと盛り付けられた煮込み料理は、根菜も肉も形が崩れるほど柔らかく煮込まれており、見ているだけで喉が鳴る。
長机の端では、白髪交じりの髭を豪快に揺らしながら、バルドが持参した巨大な酒樽の栓を力任せに抜いていた。
「がっはっは! 辺境の銘酒だ、今夜ばかりは身分も肩書きも関係ねえ! 生き残った馬鹿どもで底まで飲み干すぞ!」
「ちょっとバルド殿、これ度数が強すぎるって! 喉が焼ける!」
酒杯を押しつけられたルークが目を丸くして咳き込み、その隣でトビーが鉄のように硬い掌で少年の背中を叩いて笑う。かつては魔法騎士団で名を馳せていた男も、下町育ちの若者も、同じ卓を囲んで肩を並べていた。
魔法が失われた世界に、かつて人々を縛りつけていた序列や権威の影はない。ただ泥にまみれ、己の足で立ち上がった者たちの、剥き出しの生命力だけがそこにあった。
「アレン殿! お前さんも突っ立ってないで、こっちで一杯やりなさい!」
バルドが並々と酒を注いだ木杯を突き出してくる。俺は軽く手を挙げて断りを入れた。
「いや、酒はいい。稽古の感覚が鈍る」
「あんたねえ、こんな目出度い日にまでそんな堅物なこと言ってんじゃないよ。はい、師匠には特製の肉多め!」
クロエがすかさず山盛りの皿を俺の前に押し付けてくる。呆れつつも受け取ると、弟子たちからどっと歓声が上がった。どこを見渡しても、屈託のない笑い声で溢れている。
騒がしい広間の熱気を背中に感じながら、俺は皿と茶の入った湯呑みを手に、静かに広間を後にした。
長い廊下を抜け、中庭に面した縁側に腰を下ろす。
夜風が心地よく火照った頬を撫でていった。空を見上げると、どこまでも澄み切った暗闇の中に、無数の星が瞬いている。
静かだった。
かつて俺の視界を焼き尽くしていたあの光景——赤黒い炎に包まれた王都、砕け散る防壁、そして魔法を奪われて為す術もなく魔物に裂かれていった人々の叫び声。あの悪夢のような記憶が、今夜はひどく遠い昔のことのように思えた。
掌を見つめる。素振りで固くなったタコと、無数の擦り傷。泥臭く、不格好に積み重ねてきたものだけが、確かにこの現実を引き寄せていた。
世界から魔法が消え去った。だが、人間は滅びなかった。誰かに縋る奇跡を失った代わりに、誰もが自らの肉体で明日を切り拓く術を手に入れ始めている。
「……終わったんだな」
誰に聞かせるでもなく、ぽつりと呟いた。吐き出した息は白く濁ることなく、穏やかな夜の空気に溶けていく。
「いいえ、始まったのですよ、先生」
凛とした声が闇を割って響いた。
振り返ると、セリアが静かに歩み寄ってくるところだった。豪奢な王族のドレスではなく、動きやすい簡素な稽古着を身に纏っている。その後ろからは、すっかり酔いの醒めた顔をしたルークが、真面目な面持ちで追従していた。
二人は縁側の前に立つと、互いに目配せを交わし、居住まいを正した。
「先生。王宮での式典では公の言葉しか伝えられませんでした。ですから、今一度、弟子の一人としてお礼を言わせてください」
セリアは背筋をまっすぐに伸ばし、深く頭を下げた。
「先生が諦めずに剣を振るい続けてくださったから、私たちは今、こうして命を繋ぐことができました。理不尽な滅びの運命からこの国を救ってくださったこと、心より感謝申し上げます」
「俺からも、言わせてください」
ルークが続く。少年の瞳には、迷いのない光が宿っていた。
「才能がないって見捨てられて、全部を投げ出そうとしていた俺に、剣を握る意味を教えてくれたのはあんたです。あんたの背中を見てきたから、俺は魔物を前にしても逃げずに踏み止まれました。……本当に、ありがとうございました」
頭を下げたまま微動だにしない二人を、俺は茶を一口啜りながら見つめた。
形式張った礼など、柄ではない。だが、彼らがどれほどの覚悟を持ってこの場に立っているかは、その立ち姿を見れば痛いほど分かった。重心のブレない足腰、無駄のない姿勢。それは過酷な修練を耐え抜いた者だけが宿す、本物の武人の佇まいだった。
「大袈裟だな」
俺は息を吐き、湯呑みを縁側に置いた。
「俺は自分が生き残るために、必要なことをやっただけだ。お前たちが生き残ったのは、お前たち自身が足を止めずに剣を振り続けたからに過ぎない」
「それでもです」
セリアが顔を上げ、柔らかく微笑んだ。
「先生が道を示してくださらなければ、私たちは暗闇の中で立ち尽くすことしかできませんでした。……魔法が失われたこの国を立て直す道筋は、決して平坦ではありません。ですが、私はもう恐れません。先生に教わったこの身体と、一本の剣があれば、どんな困難も切り拓いていけると確信していますから」
「俺もです!」
ルークが拳を握りしめ、熱っぽく語る。
「王都の復興だって、地方の魔物退治だって、俺たちが先頭に立ってやってみせます。あんたの弟子として、恥じない生き方を貫いてみせますよ」
気負いのある言葉だったが、その奥にある意志に揺らぎはなかった。ただ守られるだけだった雛鳥たちが、いつの間にか自らの翼で風を捉えようとしている。
かつて一人きりで絶望の未来と対峙していた頃の寒々しさは、もうどこにも残っていなかった。
「……そうか」
俺は短く応じ、夜空から視線を戻して二人を見た。自然と、口元がわずかに緩むのを止められなかった。
「なら、その口先が本物かどうか、明日から試させてもらうとするか」
「え?」
ルークがぽかんと口を開ける。セリアも微かに眉を寄せて首を傾げた。
「大魔物を倒したくらいで浮かれていられるほど、現実は甘くない。魔物の残党狩りに王都の警備、教えを請いに来る新人たちの指導……やるべきことは山積みだぞ」
俺は立ち上がり、弟子たちを見下ろした。
「今夜の宴が終わったら、明日の朝は日の出と共に稽古を始める。まずは基礎の素振り千本からだ。少しでも筋肉が鈍っていたら、容赦なく倍にするからな」
「せ、千本!? 今日戦いが終わったばかりなのに、もう明日からですか!?」
情けない悲鳴を上げるルークに、セリアがくすりと上品に笑い声を漏らす。
「ふふ、望むところです、先生。このセリア、どれほど厳しい鍛錬であろうとお供いたします」
「ちょ、セリア様までそんな本気にならないでくださいよ! 俺の腕が本当にちぎれちゃうって!」
慌てふためく少年の声が、静かな夜の庭に心地よく響き渡った。広間からは相変わらず、仲間たちの陽気な歌声と乾杯の音が途切れず流れてくる。
失われたものは多い。だが、手に入れたものはそれ以上に確かだった。
俺たちは歩き出している。魔法という幻影を脱ぎ捨て、己の肉体と精神だけを頼りに生き抜く、新しい時代の大地を。




