第20話
圧倒的な質量と硬度による、回避不能の蹂躙。
俺は鉄剣を構え直し、その圧倒的な暴力の気配を正面から見据える。
暗い地下空間の空気が、大魔物の巨体に押し出されて突風となる。
石畳を砕きながら迫る奴は、さながら暴走する岩の塊だ。
まともに受け止めれば、いくら鍛え抜いた肉体でも一溜まりもない。
だが、避ける必要はない。
俺は呼吸を深く沈め、刃こぼれした鉄剣の切っ先をわずかに下げる。
激突の瞬間。
俺は半歩だけ右へ滑るように移動し、突進の軌道から急所を外した。
同時に、すれ違いざまに剣を振り上げる。
力任せの斬撃ではない。
標的は、奴が自らの血肉を異常発達させて作り出した硬質な外殻の、ほんのわずかな継ぎ目。
短い呼気と共に放たれた刃が、脇腹の装甲の隙間に滑り込む。
硬い外殻を削り取る嫌な感触が手に伝わる。
勢い余った大魔物が奥の石壁に激突し、地下水路全体が大きく揺さぶられた。
天井からパラパラと土埃が落ちてくる。
奴の脇腹からは、赤黒い体液が滲み出す。
致命傷には程遠いが、確実にダメージは蓄積する。
「小賢しい真似を……!」
大魔物が壁から身を引き剥がし、憎悪に満ちた目で俺を睨みつける。
俺は無言で剣に付着した体液を振り払い、再び正眼に構えた。
焦る必要はない。このまま隙間を突き続ければ、いずれ装甲は崩壊する。
◆ーーーー◆
その頃、地上の王都広場は阿鼻叫喚の様相を呈す。
私、セリアは、息を荒らげながら目の前の光景を睨みつける。
魔法が完全に消失した今、かつて王国最強と謳われた魔法騎士たちは、ただの重い鎧を着た案山子に成り下がる。
彼らの剣は魔物の分厚い皮膚に弾かれ、次々と吹き飛ばされる。
広場の中央で暴れ回るものは、四つん這いの獣型をした大型魔物だ。
鋭い牙と爪を持ち、その巨体からは想像もつかないほどの俊敏さで兵士たちを蹂躙する。
石畳が砕け散り、砂埃が舞い上がる。
「殿下! お下がりください!」
近衛兵の一人が叫ぶが、私は首を横に振った。
王族として、民を見捨てるわけにはいかない。
それに、私には確かな勝算があった。
私は柄を両手で握りしめ、魔物の前に進み出た。
その瞬間だった。
私の内側で、何かが弾けるような感覚が走る。
幼い頃から私を苦しめた、あの不快な熱。
高貴な血筋ゆえの『魔力過多による魔力酔い』だと診断され、耐え忍んだ激しい体調不良。
それが、嘘のように消え去る。
代わりに、澄み切った熱い奔流が、全身の血管を駆け巡り始めた。
魔法の完全消失。
世界から魔力が失われたことで、私の中に眠る別の力——純粋な生命の力である「闘気」が、ついに枷を外されたのだ。
体が羽のように軽い。
視界がクリアになり、魔物の筋肉の動き、重心の移動が手に取るように分かる。
今まで感じたことのない万能感が、私を包み込む。
「……先生」
私は、地下で戦う彼の姿を脳裏に描く。
嘲笑されながらも、決して折れることなく剣を振り続けたあの背中。
彼から教わった剣の型が、自然と私の身体を動かす。
無駄を削ぎ落とし、ただ一撃に全てを込める動き。
足の裏から大地の力を吸い上げ、腰の回転を通じて腕へと伝える。
私は全身を巡る熱い奔流を、握りしめた剣の刀身へと流し込むイメージを描いた。
刀身が、微かな陽炎のような揺らめきを纏う。
魔法ではない。これは、私自身の力。
魔力ゼロと蔑まれた彼が、私に教えてくれた真の強さだ。
大型魔物が私に狙いを定め、太い前脚を振り上げて飛びかかってくる。
周囲の兵士たちが悲鳴を上げる。
だが、私は逃げない。
教えられた通りに踏み込み、下から上へと剣を振り抜いた。
空気を切り裂く鋭い音が響く。
硬い岩のような魔物の皮膚。
だが、闘気を纏った私の剣は、何の抵抗もなくそれを両断した。
太い前脚が宙を舞い、魔物が苦痛の悲鳴を上げて体勢を崩す。
私はそのまま身を翻し、流れるような動作で魔物の首筋へと二撃目を叩き込んだ。
巨大な体が地響きを立てて倒れ伏し、二度と動かなくなる。
吹き出した血飛沫が、私の修練着を赤く染める。
「す、すげえ……!」
少し離れた場所で戦うルークが、そばかすのある顔を綻ばせて歓声を上げた。
彼は素早い身のこなしで小型の魔物を翻弄し、的確に急所を突く。
周囲の兵士たちも、信じられないものを見るような目で私を見つめる。
「殿下……今の力は、一体……」
へたり込む魔法騎士が、震える声で尋ねる。
「魔法ではありません。ただの剣術です」
私は息を整えながら、はっきりと答えた。
先生の教えは正しかった。
魔法がなくても、私たちは戦える。
この力があれば、国を、民を守ることができる。
長年の劣等感が、音を立てて崩れ去るのを感じた。
「ルーク、油断しないで。まだ敵は残ります!」
「おうっ! あんたに負けてられねえな!」
ルークもまた、軽装の身を躍らせて別の魔物へと向かっていく。
彼の動きもまた、以前とは見違えるほどに洗練される。
道場で共に汗を流した日々が、今ここで結実する。
私は空を見上げ、そして足元の地面——地下深くへと意識を向けた。
先生。私はもう、足手まといではありません。
あなたの教えは、確実に私たちの中に根付く。
だから、どうかご無事で。
◆ーーーー◆
再び地下水路。
大魔物との死闘は、重苦しい膠着状態に陥る。
先ほどから奴は両腕で急所を覆い、極限まで硬化させた防御姿勢を崩そうとしない。
不用意に踏み込めば、その強固な盾がそのまま圧倒的な質量を持つ鈍器となって襲いかかってくる。
暗闇の中、警戒を強めた奴の荒い息遣いだけが不気味に響き渡る。
だが、俺の心は不思議なほどに澄み切る。
地上の振動が、微かに足裏へ伝わってくる。
魔物が暴れ回る無秩序な震動ではない。
もっと鋭く、統率の取れた動き。
セリアやルークたちが、地上で確実に敵を減らす証拠だ。
(……やっているようだな)
口元に自然と笑みが浮かぶ。
弟子たちの成長が、見えない絆となって俺の背中を押す感覚を覚える。
俺が教えた剣術は、この魔法を失った世界で確実に根を張り始める。
もはや、俺一人で全てを背負う必要はない。
前世の悲劇は、もう二度と繰り返されない。
「何を笑う、人間!」
大魔物が苛立ちを露わにし、両腕を大きく広げて威嚇する。
周囲の空気がビリビリと震え、奴の殺気が膨れ上がる。
「余裕? いや、ただ確信しただけだ」
俺は低く呟き、鉄剣の柄を握り込む。
弟子たちが地上で証明してくれた。
俺の歩んできた道は、間違っていないと。
ならば、俺はここで、この大魔物を討ち果たすだけだ。
奴の硬質な外殻。
その継ぎ目、関節の隙間。
先ほどから削り続ける箇所が、俺の目にははっきりと見える。
奴の防御は完璧ではない。
度重なる斬撃によって、外殻の一部には微かな亀裂が走り始める。
そこが、奴の命運を分ける致命の弱点だ。
大魔物が再び、全身を砲弾のようにして突進してくる。
地響きが地下水路を揺らし、圧倒的な暴力が迫る。
だが、今度の俺は躱さない。
弟子たちの成長がもたらした心の余裕が、俺の剣にさらなる冴えを与える。
一歩踏み出し、極限まで研ぎ澄ませた剣閃を放つ。
切っ先が向かう先は、装甲の最も脆い一点。
果たして、この一撃で奴の鎧を完全に砕くことができるか。
俺は全身の力を刃に乗せ、暗闇を切り裂いた。




