第18話
魔将が残った左腕を大きく振りかぶり、地響きを立てて突進してくる。
俺は姿勢を低く保ち、その大振りの一撃を紙一重で躱した。
空を切った巨大な拳が石畳を粉砕し、爆発のような轟音と共に激しい振動が巻き起こる。巻き上げられた粉塵が視界を遮るが、俺の感覚は敵の巨体を正確に捉えていた。
飛び散る瓦礫の雨を剣の腹で的確に弾き落としながら、俺は敵の側面に回り込む。手首に伝わる重い衝撃が、奴の規格外の筋力を物語っていた。
奴の息遣いは荒い。先ほど俺が深く斬り裂いた右腕からは、未だに黒黒とした血がとめどなく滴り落ちていた。
「グルルルルッ……!」
喉の奥から漏れる唸り声には、明確な焦りが混じっている。
自らの圧倒的な力が通じない相手に対する、本能的な恐怖。それが、この傲慢な魔物の心を確実に蝕んでいた。
俺は追撃の構えを崩さず、静かに敵を見据える。
かつて前世で対峙した時、俺はこの魔将の前に手も足も出なかった。魔法騎士たちが次々と蹂躙されていく中で、ただ絶望を噛み締めることしかできなかった。
だが、今は違う。
極限まで鍛え上げた剣術と、魔法が消えゆくこの世界の理が、俺に抗う力を与えてくれている。
ズズンッ、と地下空間全体が大きく揺れた。
ザイラスが踏みしめる足の力だけで、周囲の石柱に亀裂が走り、天井から無数の土砂が降り注いでいる。地下水路の壁面が崩れ、濁流が足元を洗い流していった。
確かなダメージを与えているとはいえ、奴の質量が生み出す破壊力は健在だ。この激しい攻防が引き起こす振動は、間違いなく地上にも伝わっているはずだ。
(頼むぞ、あんたたち)
俺は地上の仲間たちが持ち堪えてくれることを信じ、再び剣を構え直した。
◆ーーーー◆
足元から突き上げるような激しい揺れに、私は思わず近くの石柱に手をついた。
「ひっ……また揺れたぞ!」
「地下で何が起きているんだ……! 私たちはここで死ぬのか!」
王都の西区画。避難所に指定された広場では、集まった市民たちが悲鳴を上げ、身を寄せ合って震えている。
空はどんよりと曇り、魔法の光を失った街は薄暗い。これまで生活のすべてを魔法に依存してきた人々にとって、光も温もりも奪われたこの状況は、ただでさえ心を削るものだった。
魔力で灯るはずの街灯は冷たく沈黙し、暖を取るための火球すら生み出せない。泣き叫ぶ子供を抱きしめる母親の顔には、抗いようのない絶望が浮かんでいた。
「落ち着きなさい! むやみに動けば怪我をしますよ!」
私は声を張り上げ、パニックになりかける群衆を制止した。
老骨に鞭打つような真似だが、王家に仕える者として、ここで膝を折るわけにはいかない。魔法至上主義の頂点に立っていた王家が、今や魔法を失い、ただの無力な存在に成り下がろうとしている。だが、それでも守るべき民がいる限り、私は為政者としての責務を全うしなければならない。
「モーガン殿の言う通りだ! 貴様ら、落ち着かんか!」
広場の入り口から、野太い声が響き渡った。
白髪交じりの髭を揺らし、甲冑を鳴らして歩み寄ってくるのはバルド辺境伯だ。歴戦の傷跡が残る厳つい顔つきは、不安に怯える市民たちにとって、今は何よりも頼もしく見えるだろう。
「バルド様。防衛線の再構築は進んでいますか?」
「ああ。儂の私兵どもを主要な通りに配置した。崩れた建物の瓦礫を集めてバリケードを築かせている。魔法が使えん以上、頼りになるのは己の肉体と武器だけだからな。だが、連中も腹を括ったようだ」
バルドはニヤリと笑い、広場を取り囲むように立つ兵士たちを顎でしゃくった。
彼らの手には、かつて見下していたはずの無骨な鉄槍や長剣が握られている。魔法という枷が外れた今、彼らは純粋な戦士として立ち上がっていた。
ズズンッ、と再び足元が大きく揺れた。
「……恐ろしい力だ。地下に潜ったあの若造は、一体どんな化け物とやり合っているのやら」
バルドが忌々しげに舌打ちをする。
「ええ。ですが、彼なら必ず元凶を絶ってくれます。私たちは、彼が戻るべき場所を守り抜くだけです」
私は市民たちに向き直り、毅然とした態度で語りかけた。
「恐れることはありません。今、この王都の地下では、人類の希望が命を懸けて戦っています。私たちは彼を信じ、この場を耐え抜くのです」
私の言葉に、不安げだった市民たちの顔に少しずつ光が戻っていく。
かつては彼を胡散臭いと警戒していた私が、今や誰よりも彼を信じている。皮肉なものだが、あの男の剣には、人を惹きつける確かな熱があった。
「ふん、お前さんがそこまで言うとはな。だが、同感だ。あの若造は、必ずやり遂げる」
バルドもまた、力強く頷いた。
私たちは顔を見合わせ、再び迫り来る揺れに備えて足を踏ん張った。
◆ーーーー◆
再び地下空間。
俺はザイラスの猛攻を捌きながら、冷静に敵の状態を観察していた。
「ガァァァッ!」
焦りに満ちた咆哮と共に、ザイラスが左腕を振り回す。
だが、その動きは明らかに精彩を欠いていた。空を切る拳の速度は落ち、踏み込みの鋭さも失われている。
視線を向けると、先ほど俺が深く斬り裂いた右腕の傷口が、そのままの状態で開いていた。
(再生していない……)
前世の記憶にある大魔物は、どれほど深い傷を負おうとも、周囲の魔力を吸収して瞬時に肉体を修復していた。斬っても斬っても塞がる絶望的な生命力こそが、奴らの最大の武器だったはずだ。
だが今は違う。
世界から魔法が完全に消失しつつあるこの状況下で、奴は魔力による自己再生能力を失っているのだ。
さらに、俺の手に握られた刃こぼれした鉄剣。
トビーが打ってくれたこの特殊な鉱石の剣は、魔力を一切通さない。それが敵の傷口に干渉し、残された微かな魔力循環すらも阻害しているのだろう。
「お前の時間は、もう止まっているんだよ」
俺は小さく呟き、踏み込んだ。
ザイラスの巨体が僅かに怯む。
後ずさる巨体を追い、俺はさらに一歩、間合いを詰めた。
勝利への確かな手応えが、俺の胸の奥で静かに燃え上がる。
前世の悲劇を塗り替え、人類が生き延びる新たな時代を切り開く。その瞬間が、すぐそこまで迫っている。
このまま一気に畳み掛ける。
そう決意し、剣を上段に構えたその時だった。
ドクンッ。
地下空間に、異様な音が響き渡った。
心臓の鼓動のような、重く不気味な音。
「……なんだ?」
俺は警戒を強め、足を止める。
ザイラスの様子がおかしい。
奴は斬り裂かれた右腕を押さえたまま、天を仰いで苦しげに呻き声を上げ始めた。
ドクンッ、ドクンッ。
鼓動の音は次第に大きくなり、空間全体を震わせる。ザイラスの漆黒の装甲が、内側から脈打つように波打ち始めた。
再生能力を失った肉体が、別の何かへ作り変えられようとしているのか。
「グォォォォォォォッ……!」
絶望的な痛みに耐えかねたような叫び声と共に、ザイラスの体表から赤黒い蒸気が噴き出した。
周囲の空気が歪むほどの熱量が、地下空間に充満していく。ひび割れた装甲の隙間から、異常に膨張した筋肉が覗いていた。
奴の次なる手とは、一体何なのか。
俺は剣の柄を強く握り直し、変異を続ける大魔物から目を離さずに立ち尽くした。




