第1話
ルミナス王国の魔法学園。その敷地の最奥に位置する第十三訓練場は、普段は誰も寄り付かない場所だ。
ひび割れた石畳の上で、俺はただ黙々と剣を振っていた。
「ふっ、はっ!」
呼気と共に踏み込み、刃こぼれした古い鉄剣を振り下ろす。
手には無数の豆やタコが重なり、皮膚は硬く変質している。実戦を想定した軽装の修練着は、すでに汗で重くなっていた。
「おいおい、またそんな鉄屑を振り回しているのか。相変わらず涙ぐましい努力だな」
背後から響いたのは、酷薄な嘲笑だった。
素振りの手を止めずに視線を向けると、豪奢な装飾が施された魔法騎士の鎧を纏う男が立っていた。ガストンだ。その後ろには、神経質そうな細身の騎士、ヴィクターが控えている。
「魔力ゼロのゴミがいくら汗を流したところで、高位魔法の前では無意味だということがまだ分からんのか?」
ガストンは自信に満ちた不遜な笑みを浮かべ、俺の手にある剣を顎でしゃくった。
「どうせ魔法が使えないから、そんな時代遅れの剣に逃げただけだろう。見苦しい真似はやめて、さっさと学園から出て行ったらどうだ」
「ガストン殿。あまり挑発なさらずとも……」
ヴィクターが胃の辺りを押さえながら、小声で諫める。彼は規律を重んじる真面目な男だが、上司であるガストンの傲慢さには手を焼いているようだった。
「黙れヴィクター。私は事実を言ったまでだ。魔法を使えない底辺の人間が、我々と同じ空気を吸っていること自体が不愉快なのだよ」
ガストンの言葉を聞き流しながら、俺は再び剣を上段に構えた。
怒りはない。ただ、静かな呆れがあるだけだ。
こいつらは何も分かっていない。自分たちが依存している魔法という力が、どれほど脆い基盤の上に成り立っているかを。
脳裏に蘇るのは、前世の記憶だ。
空を覆い尽くす巨大な魔物の群れ。炎に包まれる王都。
魔法が使えなくなり、ただの図体ばかりの案山子と化した魔法騎士たちが、次々と魔物に蹂躙されていく絶望的な光景。
そして、俺を庇って血だまりの中に倒れた、金髪の王女の姿。
『先生……どうか、生きて……』
その声が耳の奥でリフレインする。
俺は奥歯を噛み締め、渾身の力で剣を振り下ろした。
空気を裂く鋭い風切り音が鳴り、ガストンがわずかに肩をビクつかせる。
「……チッ。何を言っても無駄なようだな。せいぜいその無用の長物を抱えて、惨めな人生を送るがいい」
俺が一切反論しないことに苛立ったのか、ガストンは鼻を鳴らして踵を返した。ヴィクターが申し訳なさそうに一礼し、足早にその後を追っていく。
俺は乱れた呼吸を整え、手元の『なまくら剣』を見つめた。
魔法騎士たちからは、魔力を一切通さないゴミだと嘲笑されている。だが、これは魔力に干渉しない特殊な鉱石で打たれた剣だ。
やがて訪れる魔法消失の際、魔力に依存した武具はすべて劣化し、崩れ去る。しかし、この剣だけは不壊の刃として残り続ける。
実戦で役に立たない見栄や権威など、どうでもいい。
俺はもう二度と、大切な人々が目の前で殺される未来を迎えるつもりはなかった。
◆ーーーー◆
放課後。夕闇が迫る中、俺は人目を避けて道場の裏山へと向かった。
鬱蒼と茂る木々を抜けた先に、蔦に覆われた石造りの構造物がある。『古の換気口』だ。
一見するとただの廃墟の一部にしか見えないが、俺は知っている。ここが将来、王都地下水路への致命的な侵入経路となり、魔物の大群を城内に招き入れる最悪の穴になることを。
「ふっ……!」
換気口の前に立ち、俺は再び素振りを始めた。
死に戻りを果たしてからの五年間、一日も欠かすことなく続けてきた日課だ。
魔法至上主義のこの国で、魔力ゼロの俺は常に嘲笑の的だった。だが、そんなものは痛くも痒くもない。
俺の目的はただ一つ。魔法消失のXデーを乗り越え、人類が生き延びる新たな時代を切り開くことだ。
剣を振るたびに、筋肉が悲鳴を上げ、関節が軋む。
それでも止まるわけにはいかない。
前世で俺を助けてくれた恩人たちを、絶対に見捨てない。その信念だけが、俺の身体を動かしていた。
「……まだだ。もっと速く、もっと重く」
暗闇の中で、刃こぼれした鉄剣が鈍い光を放つ。
魔法が消え去った世界で、強靭な肉体を持つ魔物に対抗しうる唯一の手段。それは、極限まで鍛え上げられた純粋な物理戦闘、すなわち剣術だけだ。
俺は換気口の奥に広がる底知れぬ闇を睨みつけながら、ただひたすらに剣を振り続けた。
◆ーーーー◆
数日後。王宮の正面広場は、異様な熱気に包まれていた。
王家から重大な発表があるという触れ込みで、大勢の市民や学園の生徒、魔法騎士たちが集められていたのだ。
俺は群衆の最後尾に立ち、バルコニーを見上げていた。
やがて、重厚な扉が開き、バルコニーに二つの人影が姿を現した。
第一王女セリアと、彼女に付き従う老女モーガンだ。
セリアは艶やかな金髪を風に揺らし、意志の強い碧眼で広場を見下ろしている。だが、その顔色はどこか青白く、時折辛そうに眉をひそめていた。
周囲の人間は、あれを高貴な血筋ゆえの『魔力過多による魔力酔い』だと噂している。
だが、俺は知っていた。あれは魔法とは異なる力、すなわち『闘気』が覚醒しかかっている兆候だ。魔法至上主義の国において、王族でありながら魔法の才能に恵まれなかった彼女の身体が、無意識のうちに新たな力を求めているのだ。
「王国臣民の皆様。本日は、王家より重大な事実をお伝えしなければなりません」
セリアの凛とした声が、魔導拡声器を通じて広場全体に響き渡る。
体調不良に耐えながらも、彼女は気丈に顔を上げ、堂々とした態度を崩さない。国と民を守るためなら、いかなる苦難も受け入れる。その高潔な精神が、声の端々に表れていた。
「……信じがたいことかもしれませんが、どうか落ち着いて聞いてください」
セリアは一度深く息を吸い込み、そして、決定的な言葉を口にした。
「一年後。この世界から、すべての魔法が消失します」
一瞬。
広場から、すべての音が消え去った。
誰もが自分の耳を疑い、バルコニーに立つ王女を呆然と見つめている。
「な、なんだと……?」
静寂を破ったのは、少し離れた場所にいたガストンの声だった。
「魔法が消えるだと!? 馬鹿な、そんな戯言があるわけがない!」
「ガストン殿、落ち着いてください! 殿下の御前ですぞ!」
ヴィクターが慌ててガストンを制止しようとするが、ガストンの動揺は収まらない。
それを皮切りに、広場は爆発的な騒めきに包まれた。
悲鳴、怒号、泣き声。魔法に依存しきった旧体制の常識が根底から崩れ去り、国中にパニックが伝播していく。
「静粛に! 殿下のお言葉はまだ終わっていません!」
モーガンが一歩前に出て、鋭い眼光で群衆を睨みつける。隙のないドレスを着こなすその老女は、王家の利益を第一に考える厳格な人物だ。彼女の威圧感に押され、広場は再びざわめきを残しながらも静まり返った。
「予言は、古の文献と星の運行から導き出された確かなものです。すでに一部の地域では、高位魔法が不発になる現象も確認されています」
セリアの言葉に、魔法騎士たちの顔から血の気が引いていく。
彼らは気づき始めたのだ。自分たちが築き上げてきた地位と特権が、間もなくすべて失われるという事実に。
俺は群衆の混乱を背に、静かに踵を返した。
ついに、歴史が動き出した。
前世の記憶通り、王家が予言を公表した。これから一年かけて、魔法消失は段階的に進行していく。
第一段階として高位魔法が不発になり、第二段階で身体強化魔法すら使えなくなる。そして最後には、軍の防衛力が完全に無に帰す『Xデー』が訪れる。
「……行くか」
誰に言うともなく呟き、俺は広場を後にした。
パニックに陥り、右往左往する人々の中で、俺の足取りだけは確かな目的を持っていた。
向かう先は、俺の道場だ。
予言が公表された今、事態は加速する。魔法が使えなくなった者たちが、新たな力を求めて動き出すはずだ。
その中で、本当に見込みのある者だけを選び抜き、鍛え上げなければならない。
前世の悲劇を回避するための、具体的な準備。
残された時間は、あと一年。
空を見上げると、どんよりとした雲が王都を覆い始めていた。まるで、これから訪れる絶望の未来を暗示するかのように。
俺は刃こぼれした鉄剣の柄を強く握り直し、薄暗い路地へと足を踏み入れた。




