正義の残骸
新作小説です。
現代バトルのダークファンタジーです。
◆境界領域――人間界と天界の狭間
瓦礫が崩れ、乾いた音を立てた。
その中心に立っているのは、一人の女性――エレナだった。足元には、白い翼を血に濡らした“それ”が転がっている。
人の形をしているが、人ではない。
光を纏うはずの存在は、今や泥にまみれ、息も絶え絶えに地面を這っていた。
「が……っ、なぜ、人間が……。我ら、天の使いに……」
天使が言った。
その震える声に、エレナは無言で一歩踏み出す。
――バキッ。
鈍い音と共に、天使の腕が不自然な方向へ折れ曲がった。
エレナがその細い腕を踏み折ったのだ。
「立ちなさいよ」
低く、冷え切った声。
「エリシアは……母さんは、もっと綺麗に死んだ」
次の瞬間、エレナの拳が振り下ろされる。
躊躇はない。
それは技術ですらない。
ただ対象を物質として叩き潰すだけの暴力。
天使の頭部が石畳にめり込み、光の粒子が火花のように散った。
周囲にいた別の下級天使たちが、恐怖に顔を歪め一斉に距離を取る。
「こ、こんなはずが……! 天聖武器も持たぬ人間が、なぜ我らに干渉できる!」
「化け物だ……あれは、人間などではない!」
だが、逃げる間も与えられなかった。
エレナの姿が消える。
いや、視認できないほどの速度で、彼女は跳んだ。
一瞬遅れて、二体の天使がボロ雑巾のように吹き飛んだ。
背後の壁へ叩きつけられ、断末魔すら上げられず霧散する。
残った一体が腰を抜かして後ずさる。
「く、来るな……来るなぁっ! 穢れた、悪魔の……っ!」
「……うるさいわね」
エレナは肩を回しながら、ひどく面倒そうに呟いた。
その瞳は、激しい怒りに燃えているわけではない。むしろ冷え切っていた。
命の終わりだけを見据えているような虚無。
「お前たち、全員同じ顔に見えるのよ」
ゆっくりと歩み寄る。
「――まとめて消えなさい」
踏み込む。
最短距離で放たれた拳が、天使の顔面を真っ向から捉えた。
それで終わりだった。
静寂が落ちる。
そこにあるのは戦いではない。
完全な、一方的な虐殺。
害獣駆除にも似た光景だった。
その惨状を、離れた場所から見つめる少年がいた。
「……姉さん」
アベルだった。
震える足。
信じられないものを見る目。
恐怖と、目の前の女性が自分の知る姉であることを否定したい困惑が、彼の喉を締め付けていた。
「それ……どうやって……。人間が、天使を殺せるわけないんだ。姉さん、何をしたんだよ!」
エレナは振り返らない。
返り血を拭うことさえせず、ただ前を見据えたまま答えた。
「……別に。大したことじゃないわ」
淡々と。
「少し、力を使っただけ」
「使ったって……誰に――」
「やめておいた方がいいですよ」
軽い声が割り込んだ。
場違いなほど明るい声だった。
いつの間にか、姉弟の間に一人の男が立っていた。
人の姿をしている。
だが、どこか歪んでいる。
影の濃さが不自然に揺らぎ、足元は地面へ溶け込むように霞んでいた。
「初めまして、アベル様」
男は丁寧に頭を下げる。
「私はベルツ。そちらの“契約者様”のサポートを任されております」
「……契約?」
アベルの背筋に冷たいものが走る。
「姉さん、まさか……。母さんを殺されたからって、禁忌を……!」
「大げさね」
エレナがようやく振り返った。
その顔は以前と同じはずなのに。
その瞳には怒りも悲しみもなかった。
ただ、長い戦いに疲れた人間の色だけが残っていた。
「死にかけたから、使えるものを使っただけ」
彼女は無造作に答える。
「寿命の半分だろうが何だろうが、あいつらを殺せるなら安いものよ」
「寿命の半分……!?」
アベルは息を呑んだ。
復讐のために。
姉は自分の未来そのものを差し出したのだ。
ベルツが軽くほほ笑む。
「普通は逆なんですけどねぇ。悪魔に使われる側になるのが契約ですから」
ベルツは苦笑しながら続ける。
「でも、このお方は違う。我が主アザエル様もだいぶ面白がってますよ」
ベルツは楽しそうに笑った。
「“悪魔を使う人間”はいても、“悪魔を使い潰す人間”は初めてだ――って」
空気がわずかに歪む。
その言葉だけで理解できた。
これは触れてはいけない領域だ。
一度踏み込めば、二度と元には戻れない。
「……姉さん、それじゃあ姉さん自身が死んじゃうよ……!」
アベルの声は震えていた。
だが。
エレナは小さく鼻で笑う。
「今さらでしょ」
足元の羽の残骸を蹴り飛ばす。
「母さんが殺された日に、私たちの普通は終わったのよ」
その目が空を見る。
遥か遠く。
天の向こうを。
「……復讐よ、アベル」
静かな声だった。
「全部殺す」
冷たく。
揺らぎなく。
「あの“正義”を掲げる連中を、一人残らず」
怒りでもない。
悲しみでもない。
ただ決めたことを実行するだけの鋭利な意志。
アベルの喉がかすかに鳴る。
恐怖。
無力感。
そして何より――姉を失ってしまったような喪失感。
かつては、誰よりも優しく笑う姉だった。
その面影は、もうどこにもない。
自分だけが人間のまま。
姉だけが遠くへ行ってしまった。
そんな隔絶。
「……相手は天使なんだよ?」
アベルは叫ぶ。
「世界が正しいって決めた存在なんだよ!?」
「だから何?」
即答だった。
「間違ってるから壊すの」
姉の背中が、もう自分の知る“家族”のものではなかった。
その瞬間――
世界が悲鳴を上げた。
上空に巨大な光の裂け目が走る。
そこから降りてくる“気配”。
今までの下級天使とは比較にならない。
世界そのものがひれ伏すような圧力。
ベルツの顔から初めて笑みが消えた。
「……あー、これはちょっとマズいですね」
珍しく真顔になる。
「予定より早い」
「何が来るの?」
エレナが狂気を含んだ笑みを浮かべる。
ベルツは空を見上げた。
「――本物ですよ」
その声は低かった。
「ここらの雑兵とは格が違う。ミカエリス様直属の“処理班”です」
一筋の光が地上へ垂直に落ちる。
轟音。
衝撃波。
そして現れた。
黄金の甲冑。
感情を持たない瞳。
高位天使。
その存在は、まるで“世界が形を取った”かのようだった。
その威圧感だけでアベルの膝は震え、意識が遠のきそうになる。
だが――
エレナは迷わず前へ出た。
削られた寿命を燃やすように。
その瞳に黒い炎が宿る。
「……ちょうどいい」
拳を握る。
口元が歪む。
復讐者の笑み。
その笑みは、怒りでも喜びでもなかった。
ただ、壊れてしまった人間だけが浮かべる、薄い微笑みだった。
「退屈してたところよ」
空を裂く光へ向かい、エレナは言い放った。
「さあ――来なさい」
次の瞬間。
視界は真っ白な閃光に包まれた。
続きは
7月18日の夜21時〜23時の間に、10話程いっきにアップ予定です。




