第一章 氷の夜伽と「生きた記録帳」
夜。月の光さえ届かない後宮の隅、低位の官吏の娘である常在・鈴花は、硬い寝台の上で命令を待っていた。
今夜、彼女は突然、誰にも予想されなかった命令を受けた。
「今宵、常在・鈴花に、皇帝陛下への夜伽を命じる」
皇帝・蒼龍は即位以来、誰にも心を開かないことで知られる。先代の権力争いの中で玉座を血で染めた彼は、その孤独と冷酷さから、後宮でも「氷の玉座の主」と恐れられていた。
緊張で体が震えるのを感じながらも、鈴花は女官に連れられ、煌びやかな寝宮ではなく、皇帝が政務を執る「乾清殿」の奥へと通された。
扉が開き、鈴花は息を呑んだ。
玉座に座る皇帝・蒼龍は、まるで夜の闇そのものが形を成したかのように冷たい美しさを放っていた。彼は分厚い奏状(報告書)から顔を上げることなく、冷たい声で命じた。
「来たか、鈴花。そこの几帳の影に座れ。余の邪魔をするな」
夜伽を命じられたはずの鈴花は、寝台へ導かれるどころか、部屋の隅の簡素な椅子に座るよう命じられた。
蒼龍の視線は書類に釘付けのまま、まるで彼女の存在を忘れたかのように、ただ静かに筆を走らせる。
「……陛下」
鈴花が小さく声を絞り出すと、蒼龍はようやく筆を止め、その銀の瞳を彼女に向けた。その瞳は、深淵のように底が見えず、わずかな感情の揺らぎさえ映さない。
「余が貴様を呼んだのは、夜を共にするためではない。貴様は後宮で最も目立たず、最も警戒されていない。そして、最も記憶力が良いと聞く。貴様には、余の政務をただ見て、聞いて、すべてを記憶するという役目を与えよう」
鈴花の役目は、皇帝が扱う機密文書の内容、謁見に訪れる臣下の言葉、そして、皇帝が何に心を砕いているのかを、一字一句違えずに頭の中に記録することだった。これは、後宮の女官や宦官の誰にも知られてはならない、皇帝の孤独な情報戦だった。
そして、鈴花が蒼龍の「冷血さ」を初めて目の当たりにしたのは、最初の夜伽の三日目のことだった。
「その奏状を、火にくべよ」
蒼龍が命じたのは、遠方の治水事業の失敗を報告した文書だった。担当者の失態が原因で、領民は飢えに苦しんでいるという内容だ。
鈴花は驚愕した。
「陛下……この報告書には、次の策を練るための詳細な情報が……」
「余が策を練るのは、この報告書ではない。この失敗を報告してきた愚かな臣下の頭だ」
蒼龍は表情一つ変えずに、次に呼ばれてきた宦官に命じた。
「治水担当の周を即刻罷免し、一族郎党、最も冷たい北の要塞へ送れ。そこで、彼らが飢えと寒さで死なぬよう、最低限の食糧だけを与えよ。『失敗の代償』とは何か、肌で学ばせるのだ」
彼の声には、怒りや憎しみといった感情のトーンは微塵もなかった。まるで、無価値な道具の処分を命じるかのように淡々としている。
「陛下、それではあまりにも……」
鈴花が思わず声を上げると、蒼龍の銀の瞳が鋭く光り、鈴花を射貫いた。
「貴様、余の命令に異を唱えるか? 貴様は生きた記録帳だ。感情も、意見も、余の許可なく発するな。後宮の女が、国の政治に口を挟むことこそ、最も愚かな行為であると知れ」
その冷たい言葉は、鈴花の心を完全に凍りつかせた。
(この方は、感情というものが欠落している。人の命を、まるで駒のように扱われる……。これが、この国の頂点に立つ者の孤独と冷血さなのか)
しかし、鈴花はそこで諦めなかった。この「夜伽」は、彼女の命と引き換えの任務。彼女は、目を閉じ、皇帝が処理した「北の要塞」という三文字と、「最低限の食糧」という言葉を、深く脳裏に焼き付けた。




