四十四話 保存魔法のかかった瓶と収納棚
いつしか季節は秋になろうとしていて、爽やかな風は涼しさを運ぶようになっていた。
「――」
ロッシュは地面を爪先で叩き、足にとって最適な位置へと靴を調整する。
新調した灰色のつなぎは、ヴァンサン家の魔物討伐ギルドの制服と同じように物理と魔法の耐性を高める付与がされている。
「よし」
臓器に負担をかけないよう屈伸や伸びなどの準備運動をしてから、ロッシュは地面を蹴った。
碧い目に木々が流れるように映る。倒木を跳び、枝を掴み、しなやかな身のこなしで森を走った。
「――ッ!?」
切り株を踏み台にした先で掴んだ枝が、小気味よい音を立てて折れた。支えを失ったロッシュの体は宙に放り出され、天地がひっくり返る。
けれど幹に激突しそうなところを、体を捻って回転して綺麗に着地した。膝を伸ばしたロッシュはぶるぶると頭を振り、大きく息を吐く。
「早く感覚を取り戻さないと」
この一ヶ月で薬はすっかり抜け、血液もある程度は回復したので神官からようやく運動の許可が出た。
「――」
ふいに、荒くなった息を整えるロッシュに影が落とされた。正体はあとから追いかけてきた脚長力馬だ。労わるような頬ずりをされ、ロッシュも撫で返す。
「わかったわかった。今日はもう帰るよ」
始まりと同じようにストレッチをし、帰宅の準備をする。今まで急ぎすぎてしまった分、これからは無茶をせずゆとりをもって生活したい。
帰りは脚長力馬の背中に乗せてもらい、体力を戻すことに専念した。
移り住んだ別邸は生い茂る草木に囲まれている。庭には池があり、脚長力馬がよく水遊びをしている光景が見られるようになった。角兎は沈められそうになるからか、池には決して近づかないようにしているようだが。
「エリゼオ」
玄関前の馬車からエリゼオが降りるときに濃色の髪がなびいた。前髪を押さえながら軽く梳き、右のアメジストにロッシュを映すなり笑顔を咲かせる。
「久しぶりです」
「はい、お久しぶりです。今日はロッシュに、渡したいものがあって、持ってきました」
革のトランクを掲げたエリゼオを応接室へと通し、ロッシュは着替えを急いだ。
つなぎに慣れてしまったせいで貴族然としたシャツはすっかり堅苦しく感じるが、戻った以上はいつまでもわがままは言えない。
「お待たせしました。今度はなにを作ったんですか?」
対面のソファに腰かけながら尋ねる。
「僕が作ったものはないです。ロッシュの兄君……カシアスさまが、用意しました」
「カシアス兄さんが?」
ロッシュは首を傾げる。
「しばらく王都を離れることができず、手ずから渡せないことを、悔やんでいました」
エリゼオはトランクを開ける。
手のひらサイズの四角い木片が一つと、これまた手のひらサイズの瓶が一つ入っていた。
「どうぞ」
ロッシュはまず瓶を手に取った。
「それは保存魔法がかけられた瓶です。中に入れたものは、腐ることがないです。時間が止められたみたいに」
「一つだけ……」
思わず漏れた呟きをエリゼオは聞き逃さず、「きっとそう言うと、手紙に書いてありました」と苦笑した。
「すみません。一つでも嬉しいです」
「二つ目からは、神官に渡すので、受け取るようにと、言ってました。それは誠意で、本当はそれも神官に預けてほしいそうです」
目に見える形として一足先にロッシュへ贈ってくれたのだろう。
「それでは、これは?」
ひとまず瓶を置き、ロッシュは木片に手を伸ばした。赤褐色の帯模様の入った黒檀色で、滑らかな手触りの代物だ。
「収納棚です。知ってますか?」
「収納棚! もちろん、知ってます」
ロッシュは目の色を変え、収納棚と説明されたそれをくるくると裏返した。
「手に持って、そうです。そしたら、左から右に広げてください。そしたら下から上へ。それを繰り返してください」
エリゼオの説明を食い入るように実行する。手のひらサイズだったそれは、成人男性の半身ほどの大きさがある扉へと姿を変えた。
しかも、空中であろうと手を離した位置で固定されるという、なんとも便利な機能付きである。
「――」
ロッシュは胸を高鳴らせながら両開きの扉に手をかけた。
横から見ても薄い扉なのに、いざ開けば奥行きがあり、数段の棚板を有している。
「これが、収納棚……!」
収納棚とは、ある迷宮遺跡で発掘された魔導具である。
どのような原理で、どのような魔法がかけられているのかはいまだ解明されておらず、謎も多い。けれど複製魔法によって量産され、迷宮遺跡の宝とあってそれなりに値も張るものの、その便利さから市井にも普及している。
「――」
収納棚を広げ、血の入った瓶を取り出し、魔法を使う。
一連の流れがロッシュの頭の中で黙々と組み立てられた。棚に血液の詰まった瓶が並ぶのはかなり不気味な光景だが、それが実現することすら楽しみである。
「三稜鏡集めは、そろそろ始まりますか?」
「はい、そうですね。運動の許可も出たので付近の森を散策しながら、探していこうと思っています」
「僕が店を出せるかどうかは、ロッシュにかかってるので、頑張ってください」
「どういうことですか?」
「オスカーさまが、言ってました。店を出すなら王都に。それが叶うのは、ロッシュが王都に戻るときと」
エリゼオはまっすぐな目でロッシュを見つめる。
「フィエルテの言葉を覚えるのは、大変だけど、ヴァンサンの魔導具師に、魔導具作りを教えてもらうのは、楽しいです。でも、ロッシュが別邸にいる限り、僕も本邸から出られません」
「なるほど」
「本邸がいやなわけじゃないですけど、店を出せるって言われたのに出せなかったら、悲しい……悔しいです」
だから、とエリゼオはいったん言葉を区切り、にこやかに微笑む。
「僕のために、早く集めてくださいね?」
いつの日かのエリゼオの面影が重なる。
「――当たり前です」
言われずとも、ロッシュの闘志はすでに燃えていた。
◇◇◇
穏やかな川のせせらぎは、優雅な泳ぎを披露する魚たちを蹂躙しようとする脚長力馬によって喧騒に包まれた。
激しい水遊びはおなじみだが、こちらにまで冷たい水が跳ねてくるからやめてほしいとロッシュは思う。
「まあ、ストレス解消になるならいいけど」
楽しそうな脚長力馬を横目にロッシュは収納棚を展開する。棚板には三つの瓶が並んでおり、どれも血液が入っている。
実際に目の前にしたら猟奇的だが、ロッシュはそんなこと露知らずでわくわくを抑えられないでいる。ヴァンサンに戻ってからまだ一度も魔法を使っていない。
この数ヶ月は魔石作りで魔力を消費したり身体能力向上のために身のこなしを鍛えたりなど、主に訓練に時間を当てていた。
神官に健康状態をチェックしてもらいながら血を抜いてもらい、保存した収納棚を眺めるのがロッシュの最近の楽しみである。
それを先日、愚者火の灰を量産する魔導具の構想を練っていると話に来てくれたエリゼオに話したところ、軽く引かれてしまった。
ロッシュとて自分の倫理観が少し、ほんの少しこじれていることは自覚している。それでもいくら眺めても飽きないし、早く使う場面が来ないかとうずうずしてしまうのだ。
しかし、いざ魔物と対峙すると途端にもったいなく思えてしまい、結局は短剣で応戦しているのが現状である。それに、鍛えたおかげで短剣だけで事足りるというのも魔法を使う選択肢が潰える理由にもなっている。
「とはいえ、これだけ貯まれば魔法を存分に使える」
そんなロッシュの願いを叶えるように、背後でがさりと葉が擦れる音がした。これ幸いと瓶を手にぱっと振り返ったロッシュだったが、栓を開けようとする手がぴたりと止まる。
「……お前か」
「きゅい?」
円らな瞳でこちらを見上げる角兎が茂みから現れた。立派だった頭頂部の角は落ち、新たな生え替わりのサイクルに突入している。
「きゅい、きゅいっ」
角兎はだんだんと精一杯の地団駄を踏み、置いていかれたことへの抗議をする。
「だって、気持ちよさそうに寝てたじゃない」
「きゅいー!」
「あっ」
不満そうに鳴く角兎の小さな体が浮く。煩わしそうに脚長力馬は角兎の首根っこを食み、もぐもぐと甘噛みで弄んだ。
悲痛に叫ぶ角兎はじたばたと暴れるが、その抵抗はあまりにも無力である。
「はい、意地悪はそこまで。そろそろ本格的に三稜鏡を探しに行くよ。角兎も来ちゃったから……迷子にならないように面倒見てあげてね」
脚長力馬の口から背中へと角兎を移動させながらそう声をかけると、脚長力馬は「仕方ない」と言わんばかりに小さく嘶いた。




