四十話 今まで魔法が使えなかったのは
「ぁ」
掠れた息が漏れたのと同時、ロッシュは全身に力を入れた。
無数に傷つけられた体から溢れる血は、一瞬にして骸骨兵やマンティコアを遠ざけた。がらがらと骨が崩れる音はするが、マンティコアが地に落ちる音は聞こえない。
「――」
オスカーの濡れ衣を晴らした日。カシアスの声や表情、態度が柔らかくなったのはそのときからだ。
さらに一年後、ロッシュはオスカーとステラが婚約したことを知った。二人を巡り合わせたあの日に、二人は恋に落ちていたのだ。
そしてそれを知った日から、家から出ることもなくなったのだったか。
「っ」
ずきり、と胸の奥が締めつけられるような感覚に襲われる。
痛い。ロッシュはそう感じた。心が痛くて、悲しくて、けれどどうにもできないことがもどかしい。
「ぅ、あ、ぁ……」
ぼろぼろと大粒の涙が零れ、血だまりに雫が溶けていく。
「――、――ロッシュ」
自分を呼ぶ声が鼓膜を震わせた瞬間、ぱあ、と目の前が明るくなり、視界が開けた。あまりの眩しさにロッシュは思わず目を細める。
「――」
狭まった視界に、この階にいるはずのないマミーが飛び込んできた。そしてそれは一目散にマンティコアへと絡みつき、ぎりぎりと締めつける。
いったい、なにが起きているのだろうか。
理解ができなくて、でも、どうしようもなく目の奥が熱くなって、溢れる涙に拍車がかかる。
「――僕は、はっきりと迷宮遺跡なんかに行きたくないと言ったはずだ」
自由を奪われてもがくマンティコアが、ぱき、と絡みつくマミーごと凍りついた。
「なのに、君のせいで来るはめになってしまったじゃないか」
感情の読み切れない朱色の目が、こちらをじっと見下ろしていた。
「ルネ神官、早く!」
「ええ、わかっていますとも」
状況を飲み込むよりも前に半透明の白い光に包まれ、注がれる温もりにロッシュは目を閉じる。傷が治っているのかすらもうわからないが、金色の房飾りを携える神官の腕なら傷痕すら残っていないだろう。
「ロッシュ!」
がば、と誰かに抱きしめられる。
「よか、生きてて、よかった……っ」
ゆっくりと目を開けば、自分と同じ碧い目が酷く揺れていた。そこに映る自分は小さく、惨めに見えた。
まだ、証明できていない。認められるわけがない。理解してくれない。気持ちが、逸る。
「――ぃだ」
それが誰か認識したとき、くすぶっていた激情に押し出されるように、無意識のうちに心が叫んだ。
「おれ、が……俺が! 今まで魔法が使えなかったのは、兄さんたちのせいだ……っ!」
幼い自分の幻影に引き出された、愚かで浅はかな薄暗い闇。
「ポーションを飲む習慣がなければ、もっと早く気づけてたかもしれないのに!」
贅沢な八つ当たりだ。でも、心の奥底にはびこっていた思いは堰を切ってしまった。
十八にもなって泣き喚いて、けれどちっとも胸は軽くならない。それどころかずしりと重たいなにかが居座って、醜悪を吐き出せば吐き出すほど焦燥に駆られる。
「――」
ぽた、ぽた、と頬に涙が落ちてくる。
「うん……うん、そうだね。全部、兄さんが……俺が、悪かったよ」
涙と涙が混じり合って、どちらのものともわからなくなる。
「全部、自業自得だ。俺のことを嫌いになっても、すでに嫌いでも……なんだって構わない。ロッシュがこうして生きててくれるなら、俺はもう、いいよ」
どうしてこんなにも胸が締めつけられる。
こんな思いをするのなら、薬の効かない痛みを負うのなら、悲しみを浴びるのなら、罵声を浴びせられたほうがましだ。
「だから、帰ろう」
突き放して、見捨てて、帰る場所を奪ってくれたなら。
ロッシュは罪悪感なんてものを覚えることはなく、カシアスの温もりに安堵することもなかっただろう。
「――」
一言。拒絶するくらいの体力は残っていたけれど、ロッシュの口はなにも紡ぐことなく、意識とともに闇へと誘われていった。
◇◇◇
「本当に間一髪でしたね。傷は塞ぎましたが、無事に目を覚ますとも限りません」
「縁起でもないこと言わないでください」
「事実ですよ。私の忠告は聞き届けられなかったようで残念です」
「……ロッシュには、聞こえてなかったでしょうから」
ロッシュは集中力しすぎて周りが見えなくなることがある。それは特に魔石作りにおいて顕著に表れ、頃合いを見計らって声をかけても返事がないなんてこともザラだった。
あのときは否定されたことで頭がいっぱいで、ほとんど話を聞いていなかったのだとカシアスは思う。
「無事に生還できる口振りだけど、ここが迷宮遺跡だと忘れていないか?」
前を歩いていたアルマンが不服そうに言う。振り向かなくともしかめ面をしていることが目に見えた。
「そんなこと言って、邪魔なものはアルマンさんが凍らせたではありませんか」
どこか軽快なルネにアルマンは鼻を鳴らす。
同行を拒否したのに、ギルド長命令と称して身内の揉めごとに引っ張り出されたせいでアルマンは不機嫌だ。
仕事だから任されたことは全うするが、わざわざ愛想よく振り舞う必要はないという意思表示なのかもしれない。
「カシアスさん、ロッシュさんを渡してください」
「え?」
「足がふらついています。限界なのではありませんか?」
カシアスは意外な提案をしたルネを見やる。戦闘に参加していないため体力は残っているだろうが、お世辞にも自分より筋肉があるとは思えない。
「言っておきますが、私は力持ちですよ。暴れる患者を押さえるのも神官の務めですので。そしてなにより、魔力も体力も少なくなったカシアスさんよりも私のほうが元気でしょう」
「ですが……」
「現状の戦力を考えてください。即座に戦闘へ入れるのはアルマンさんしかいません。私がロッシュさんを引き受けることで、カシアスさんも数に加えることができます」
カシアスは渋々、首を縦に振った。
「――」
ルネの背中に移ったロッシュの顔色は悪く、時折、うなされている。見慣れない服は血に染まり、自分たちが駆けつけるまでの壮絶さを物語っていた。
「一つ、お聞きしてもよろしいですか?」
「はい?」
「今後のロッシュさんをどう扱うおつもりです?」
魔物討伐ギルドとしての責務を放棄したこと。錬金術師協会から認可の下りていない薬を服用したこと。許可を得ずに迷宮遺跡へ立ち入ったこと。
それらをロッシュは魔法を使いたい一心でやってしまったのだ。様々な方面からの処罰には覚悟しなくてはならない。
「なによりロッシュは、誰が忠告しようと魔法を使い続けるだろうね。痛みを感じなくさせるような小賢しい魔導具を作らせるくらいだから」
「説得に関しては俺たちよりも適任がいる。あの人でもだめなら……そのときに考えるよ」
「ギルド長らしくない、ずいぶんと無鉄砲な計画だね。そんなに傷つかせたくないなら縛りつけて領地へ送ったらどうだ?」
「ロッシュを傀儡のように従わせることはしたくない。俺たちはただロッシュが健やかに、幸せに生きてくれることを望んでるんだ。そこに、自分の命を勘定に入れてほしくないと願うのはおかしなことかな?」
「さあ。人によって物差しの長さは違うものだからね。その問いには答えかねる」
ひと悶着ありげな空気になったが、一行は速やかな足取りで無事に一階に下り、迷宮遺跡から出ることができた。
それから神殿へと直行し、満身創痍だったロッシュはようやく、本格的な処置を受けることとなる。一刻も早く回復してほしいが、失った血液を元通りにするにはかなりの時間を要するだろう。
けれど意外にも、ロッシュが目を覚ましたのは翌日のことだった。




