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私立探偵

 CHAPTER 00「少女」


 街は灰褐色にくすんでいた。


 まだ午後3時を回ったばかりだというのに辺りは薄暗かった。

 灰色の高層ビルが空を遮り、陽光が地表に到達するのを妨げていた。

 窓ガラスの割れたビルが、お互いを支えあうように並んでいた。

 商店の大部分はシャッターや鉄格子で閉ざされていた。

 壁やシャッターは色とりどりの落書きで埋め尽くされていた。


 地面はひび割れと油の染みだらけだった。

 コンクリートはいつも濡れていた。


 湿った空気に機械油と鉄の錆びた匂いと、そして饐えた下水の匂いが染みついていた。



 荒れ果てた路地裏にひとつの人影が現れた。


 小さな影だった。


 人影はその場に似つかわしくない姿をしていた。


 美しい少女だった。


 整った顔立ち、透き通るような白い肌、白いワンピースから覗く華奢で細い手足。

 鳶色の瞳に緩やかなウェーブを描く赤毛は腰の辺りまで長く、陽の光を浴びると燃えるように輝いた。


 年齢は12、3歳くらいに見えた。

 白人にも東洋人にも見えなかった。

 強いて挙げれば古典絵画に描かれた天使か妖精を思わせる風貌。


 少女の容姿はそれほどに現実感に乏しかった。


「お嬢さん、どこへ行くのかな?」

 どこに隠れていたのだろうか、まるで地から湧き出たように、若い男が4人、現れた。

 赤や金色、カラフルに染められた髪に、耳、鼻、唇を穿った無数のピアス。

 髪、耳、首、指を覆う下品な色彩のアクセサリー。

 ある者の顔は元の人相が判らなくなるくらいの刺青が施されていた。

 

 彼等の容姿はこの辺りで典型的なストリートギャングのそれだった。

 男たちの薄笑いに下品な欲望が透けて見えていた。


「おにいさんたちと遊ぼうよ」

 ふたりの男たちが少女の行く手を遮り、後のふたりはさりげなく後ろへ回り込み、少女の逃げ道を塞いだ。

「ア・ソ・ブ?」

 少女は立ち止まり、表情のない澄んだ瞳で正面の男を見据え、呟くような声で言った。



 西暦202X年、東京都都市整備局と東京都港湾局は、沿岸部の人口増加対策と埋め立て区域の有効利用の推進を目的に、第4次臨海副都心再整備計画を立案した。

 計画の内容は、江東区と大田区にある中央防波堤埋立処分場を東南に5キロメートルほど拡張し、東京湾上に総面積約30k㎡の広大な土地を作る大規模な埋め立て事業であった。


 数年後、完成した埋め立て地には住宅や商業施設、オフィス、工業団地が誘致され、やがてそこに人口30万人規模の『都市』が出現した。


 東京湾に浮かぶ新しい埋め立て地は、人口の増加に伴い、東京都24番目の特別区として江東区と大田区から分離した。

 新しくできた区は正式には『沖州区』と名付けられた。

 しかし、住民の多くは『東京24区』または単に『24区』と呼ぶことを好んだ。


 CHAPTER 01「私立探偵」


 緑色のステーションワゴンを、表通りから1ブロック外れた狭い路地に乗り入れた。

 路上駐車でひしめく路肩に僅かな開きスペースを見つけると、愛車をその隙間にねじ込んだ。

 後ろのバンパーに何か当たった音がした。

 振り返ると茶色の…… よく見ると全体が錆だらけのワンボックスが不自然に傾いていた。

 気にすることはない、この街では些細なことだ。


 とうの昔に閉店した電気屋の前だった。

 鉄格子に覆われた空っぽのショーウインドウ、ひび割れたガラスの奥には、とっくに引退したビキニ姿のアイドルが、破れかけたポスターの中で笑っていた。

 車を降り、辺りを見回すと、錆だらけで放置された『駐車禁止』の標識が虚しく佇んでいた。


 見慣れた、いつもの光景だ。


 俺はビルの壁面に張り付いている錆の浮き出た住所の表示板を確認して、歩きだした。 

「東14番通り36、ホテル・ニューエンパイア……」

 

 そのホテルは細い路地を2ブロックほど歩いた先の、薄暗い場所に建っていた。

 20階建ての安ホテルだ。

 ロマネスク仕様を適当に模倣して建材をケチったような建物で、模造煉瓦に覆われた外装は有史以来一度も清掃したことがないと思われるくらいに汚れていた。

 建物の周りをぐるりと1周して、非常階段と裏口の位置を確認する。

 見上げれば、客室窓の4分の1位に灯りが点っていた。

 

 正面入り口に戻った。

 腕時計(タグホイヤー)で時間を確認する。

 午前11時少し前だ。

 不気味な音で軋むドアを押し開け、玄関ロビーに入った。

 実際に地獄の門があるのなら、おそらくこんな音がするに違いない。

 照明器具が壊れたままなのか、それとも電気代を節約しているつもりなのか、ロビーは廃墟のように薄暗く、辛気臭かった。

 シミだらけの絨毯。

 表面が破れてバネとスポンジが飛び出しているソファ。

 テーブルの上には中身が溢れている吸い殻入れ。

 壁際には汚い段ボール箱が積み上げられていた。

 よく見ると壁のカレンダーは2年前の物だった。

 

 不潔な室内をごまかすための、安っぽい芳香剤の臭いが充満していた。


 カウンターの奥には厚化粧の老婆が教会のガーゴイルかはたまた鬼瓦よろしく鎮座し、値踏みをするような目で俺を睨みつけていた。

 子供の頃、妖怪図鑑で見たことがある。

 独特の負のオーラを放つ不吉な面相だった。

 出掛けに靴の紐が切れた日に、引いたおみくじで『凶』が出たような絶望的な縁起の悪さだ。

「霧野です」

 俺はカウンターに近づくと、スーツの内ポケットから身分証と茶封筒を取り出した。

 仕事をする時は、スーツにネクタイが基本だ。

 身分証を婆さんの鼻先に掲げ、封筒をカウンターに置いた。

 婆さんはカウンター上の封筒を、まるでカメレオンの舌が蝿を捕るがごとく素早くひったくった。

 身分証の方はろくに見もしなかった。

 封筒は開口部から息を吹きかけ、中を覗き込む。

 中身を確認したカメレオン婆さんは、そのまま膝の上のハンドバッグに仕舞い込んだ。そして、目玉だけ俺に向けると、ぶっきらぼうに言った。

「7階の704号室」

「ありがとうございます」

 俺は礼を言って身分証を再び上着の内ポケットに戻した。

 東京都が発行する、探偵業の登録証を兼ねた身分証だ。

 都条例によって東京で私立探偵を営む者は皆、携帯を義務づけられている。

「ちょっと兄さん」

 エレベーターホールに向かおうとする俺を、婆さんは鋭い口調で呼び止めた。

「何ですか?」

 首だけ声の方を向くと、視線の隅に差し出されたしわくちゃの右手があった。

「76560円、税込みで」

「え?」

 情報料は既に支払ったはずだ。

 それともあれでは少ないと言うのか?

「宿代だよ」

「宿代?」

 俺は今日、ある男に会いに来たのであって泊まりに来た訳ではない。

「あの男のだよ」

「何で俺が?」

 婆さんは少し苛立たしげに答えた。

「あんたのせいで逃げられるかもしれないだろ」

「……」


 ここであまり言い争っても時間の無駄だ。

 それに、この婆さんの情報には今まで何度も世話になっている。

 仕方ない、依頼人に経費として請求しよう。

 俺は観念して札入れを取り出した。

「領収書をお願いします」

「宛名は?」

「霧野直人探偵事務所」

「きりの…… ?」

 ペンを見つけられずにカウンターの下を探している婆さんに、俺は胸ポケットから自分のボールペンを差し出しながら、言った。

「夜霧の霧に野原の野、直進の直に人」

「えーと、キリ? サンズイだったっけ……」

「…… 、あ、自分で書きますから」

 漢字を思い出せないでいる婆さんに、俺は諦めて言った。

「そうかい、すまないね」

 茶色く変色し、さらにシミの付いた、江戸時代の倉から発掘したと思しき古びた領収書をカウンターに置き、さらに婆さんが言った。

「じゃ、これ、収入印紙切らしてるから、必要なら自分で貼っといてくれ」

「……」

 今日は仏滅だったっけ?


 2基あるエレベーターは片方が整備中だった。

 ドアの正面にぶら下がっている『整備中』という札は、ずいぶんと古く汚れていて、おそらく未来永劫このエレベーターが整備中であることを暗示していた。

 もう片方のエレベーターに乗り込み、7階のボタンを押した。

 重苦しい音がしてドアが閉じた。

 このまま永遠に閉じこめられてしまうのではないかと不安になる。

 幸運にもエレベーターは7階で止まった。

 エレベーターの気が変わらぬうちに、俺は7階ホールへ足を踏み出した。

 壁の表示版で704号室の位置を確かめる。

 埃っぽく、そして臭かった。


 704号室のドアをノックする。

 部屋の中から誰かが近づいてくる気配がした。

 金属音?

 俺は本能的に横飛びでドアから離れた。

「!」

 鉄製の重い扉が勢いよく開き、同時に銃声がした。

 反対側の壁に小さな穴が開き、漆喰が飛び散った。

 部屋の中からは拳銃を持った中年男性が飛び出してきた。

 ピンクのシャツに黒のジャケット、ネクタイはしていない。

 男は銃を持ったまま、脱兎のごとく非常口の方向へ走った。

「河野さん!」

 俺は男の後ろ姿に叫んだ。

 オレンジのスラックスに白いエナメルの靴、おしゃれなのかそれとも単に慌てていただけなのか、靴下は履いていなかった。

 男は非常口を開けると、こちらを振り向き、もう一発、発砲した。

「!」

 反射的に身を屈めた。

 銃弾は天井に当たり、破片が俺の頭上へ落ちてきた。

 一瞬、身の危険より、婆さんに修理代を請求される不幸が脳裏を掠めた。

 きっと、収入印紙は自分で貼る羽目になるのだろう。


 非常口から外を覗く。

 鉄製の階段を、男が慌ただしく駆け降りる音が聞こえている。

「しょうがない……」

 俺も非常階段を早足で降り、男を追いかけた。

 また銃声が聞こえた。

 鉄製の階段だ、真下から撃っても当たるはずはない。

 4階あたりまで降りた時、下の方から「あっ」という声がして、どすん、という音鈍い音と金属がぶつかる音がした。

「やっぱり、やっちまったか……」

 俺は注意深く階段を踏みしめながら降りて行く。

 このホテルの非常階段は、2階と3階の間の踏み板が錆びて腐食していたのを、入る前にチェックしておいたのだ。


 はたして、男は腐食した階段を踏み抜き、一階下の踊り場で、内堀通りで車に轢かれたガマガエルのような惨めな格好で仰向けにひっくり返っていた。

 腰でも打ったのだろう、痛そうに顰めた顔で、うめき声を上げていた。

 拳銃は落ちた拍子でどこかへなくしてしまったのか、見あたらなかった。

「た、頼む…… 、見逃してくれ……」

 男は俺を見上げ、泣きそうな顔で懇願した。

「そうはいきません。これが仕事なので」

 俺はまだ立ち上がれないでいる男を見下ろすように答えた。

「な、金なら欲しいだけやるから…… 、命だけは勘弁してくれ、頼む……」

 え?

「何言ってるんです? 私はただ、あなたの元の奥さんに頼まれて探しに来ただけなのですが…… 、これにサインしていただけますか?」

 俺はスーツの内ポケットから封筒を二通取り出し、中の書類を広げた。

「え?」

 男は狐に摘まれたような顔で俺と書類を交互に見ていた。


 男は1年ほど前に協議離婚していた。

 その際、元の妻に子供の親権放棄と、慰謝料代わりに、男の所有する不動産を元妻へ譲渡するという約束をしていたのだ。

 ところが、この男は正式な手続きをする前に行方をくらましてしまった。そのため、元妻に依頼された俺が、こいつを追っていたのだ。

 俺の目的は必要な書類にサインさせることだけだ。

「じゃあ、あんたは……」

 男はなんとなく事態を理解したようで、僅かに安堵の表情を浮かべて言った。

「あなたが誰とどこへ逃げようと知ったこっちゃありませんよ」

 離婚の理由は男の浮気だった。

 そして、その浮気相手がさる暴力団組長の愛人だったことが事態をややこしくしていた。

 男は暴力団組長に命を狙われていると思いこみ、この街『東京24区』に逃げてきたのだ。

 訪ねてきた俺を、組織の殺し屋か何かと勘違いしたらしい。


 俺は視線を感じ、壁面の窓を見上げた。

 男の泊まっていた4号室の窓から、美人だが幸薄そうな30代くらいの女が、俺と男のやり取りを、幽霊のような表情で見つめていた。

 彼女は俺と視線が合うと、ふいに部屋の中へ消えた。

「なあ、俺たちのことは……」

 男はサインした書類を俺に返し、ズボンの後ろポケットから札入れを取り出しながら言った。

「口止め料ですか? そんな物いりませんよ。さっきも言った通り、あなたがどこで誰と何をしようと、全く興味ありませんから」

 俺は受け取った書類を上着の内ポケットに戻しながら答えた。

「しかし……」

 男はまだ困惑気味に俺を見ていた。

 手には札入れから取り出した数十枚の1万円札が握られている。

「それじゃ、税込みで76560円だけいただきます」

「へ?」

 男はぽかんと口を開けた。

「あなたの宿代です。ここへ来る前に、私が立て替えたんです」

 俺は男の手から1万円札を8枚抜き取ると、釣り銭と、先ほど婆さんから受け取った宛名のない領収書を手渡した。

「収入印紙切らしてるんで、必要なら自分で貼ってください」


 まだ目を白黒させている男を尻目に、俺はそのまま非常階段を降り、裏の路地へ出た。これでロビーの強欲婆さんと再び顔を合わせる不幸を回避できる。



 表通りに出ようと歩きだした俺の行く手を塞いだのは緑の制服だった。

 警備会社のガードマンがふたり、立っていた。

「この辺りで銃声がしたとの通報があったのですが、何かありましたか?」

 そのうちのひとりが威圧的な態度で俺に質問してきた。

「さあ、バックファイアかなんかじゃないんですか。何も見ませんでしたよ」

 俺はしらばっくれて答えた。

「……そうですか……」

 まだ何か言いたそうな表情が伺えた。

「失礼ですが、お仕事は……」

 俺は私立探偵の身分証を黙って差し出した。


「……ご協力ありがとうございます……」

 ガードマンは一瞬、眉の間に縦皺を入れると、きびすを返し、いそいそと立ち去った。

 めんどくさい相手とは距離をとるタイプのようだ。きっと出世するだろう。


 ふたりが立ち去り、緑色の制服が見えなくなった。

 ふと足下に目をやると、道端に黒い塊が落ちているのが見えた。

 小型の自動拳銃だった。

 中国製、ノリンコの安物だ。

「ここは『24区』だからな……」

 俺はため息と同時に、側溝めがけて拳銃を蹴り込んだ。

 拳銃は壊れた蓋の隙間から側溝の中に落ち、汚水の中に消えた。

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