エピローグ
「忘れないでくれ――」
声が聞こえた。いつかどこかで聞いたような、ひどく懐かしく感じる声だった。
以前よりもそれはクリアに聞こえた。粘つく泥の海でのたうつような感覚はなく、周囲も以前よりはっきりと見える。
『それ』は五感以外の感覚で、声の主を認識した。研究室のように無味乾燥な一室で、ガラス張りの箱の中にいる『それ』を見つめながら、彼は再度声をかけた。
「忘れないでくれ。ここはカーマ・ガタラ。私達は生きている。地球に戻ることを夢見ている」
声を聞くたびに、心が暖かくなるような不思議な感覚を覚えた。この声を覚えている。昔この声を聞いた事がある。この声を聞く為に、自分はここを目指したのだ。
「どうか、忘れないでくれ――」
(忘れない、絶対に)
真悟が声に答えようとした瞬間、声も光景も一気に遠ざかっていった。
―――・―――
目の前には知らない天井があった。高い天井に洒落た照明器具が飾られているが、ほとんど使われた形跡もなく埃がたまっている。ダブルサイズの高そうなベッドから上体を起こし、真悟は状況を整理しようと周囲を見回した。
壁紙はところどころ剥がれてきているが、それでもかなり金のかかった上質な物なのは分かる。室内に配置されているローテーブルやソファに絨毯、どれも高級品だろう。ただし、これらが部屋に置かれた数年前は、だが。
「真くん。起きたの?」
キッチンに繋がる隣の部屋から、スープの匂いと共に葵が姿を現した。体のラインがよく分かるぴったりとしたシャツの上からエプロンをつけている。ハーフパンツからすらりと伸びる脚線美が眩しかった。
突然の状況に混乱する真悟を尻目に、葵は優しく笑いかけた。
「おはよう。体は痛くない?」
「お、おはよう。どこも悪くないよ。大丈夫」
「オッケー。すぐ朝御飯できるから、ちょっと待ってて」
キッチンへと戻っていく葵の姿を見ながら、真悟はやっと今何が起きているのかを思い出していた。
ボガロとの戦いの後、神谷市に戻ってきた真悟は傷の治療を受けた。その後議会はボガロの脅威を撃退した英雄として、真悟達を町の中にあった高級ホテル――と言っても神谷市が日本にあった八年前当時の、だが――に住ませる事を許した。その一室を使い、休んでいたのだ。部屋での生活には葵が付き添ってくれて、真悟は今までの人生の中で最高に幸せな夜を迎える事ができた。
ベッドから降りて立ち上がり、ゆっくりと伸びをする。胸の傷が引きつって少し痛み、体が硬直した。
シャツの下に巻かれた包帯はボガロにつけられた傷を治療した際のものだ。ボガロの加虐趣味の為に傷は痛みを長く与える事ばかりに専念され、後遺症が残るほどの深い傷はなかった。
大きな窓から降り注ぐ太陽の光は暖かかった。この傷を負った時の、何度も死にそうになった事が嘘のようだ。
(終わったんだ……)
一つの大きな山を越えた事を、真悟はゆっくりと実感していた。
葵のいるキッチンに向かおうとしたところで、ローテーブルに置かれていたものに真悟の目は釘付けになった。
ちょうど真悟のベッドからはソファの陰になって見えなかった場所に、金属の鱗に覆われたボガロのちぎれた片腕が、無造作に置かれていた。
―――・―――
ボガロとの戦いが終わり、一週間が経っていた。
ガーデウスとボガロの戦いに決着がついた後、ボガロの軍団は総崩れとなった。もともとボガロの与える利益目当てにボガロに従っていた者たちである。仕える主人が死んだ後、命を賭して仇を討とうとする者はいなかった。
生き残った部下の多くは降伏し、残りは逃走した。降伏した者は今回の戦いの総指揮を執ったルーターに連れられて、裁きの時を待っている。
ボガロがかき集めていた兵器や資源、食料はレジスタンスに参加した村に均等に配分され、ボーガ・ゴーマの残骸の一部はガーディが手に入れた。
「いくつか調べたい事があってな」
そう言うガーディの顔は楽しそうだった。
そして一部の貴重な品や、従神と残ったボーガ・ゴーマの残骸は、ルーターが権利を主張し、持っていった。
ルーターからすれば、亜神の技術はたとえスクラップでも喉から手が出る程欲しいものなのだろう。だからこそルーターは町でガーデウスを出して暴れたガーディに興味を持ち、ボガロに渡すまいとした。そしてボガロへの制裁と、ガーディを渡さない為に、他の村を巻き込んでレジスタンスを結成し、戦争を仕掛けた。
自分の目的の為に他者を動かし、そして目的を達成した、ルーターこそ今回の戦いにおける一番の勝利者といえるかもしれない。
そして今、真悟達は神谷市に帰ってきていた。
市内の手頃なマンションの屋上に上がって、真悟はぼんやりと周囲を眺めていた。ここからなら人々が住む街並みを一望できる。空は雲一つない青空で、荒れ果てた建築物の向こうに、青々とした木々の影がわずかに見える。
時間が穏やかに、ゆっくりと進んでいくようだった。一週間前にあった戦いのことを思い出させるのは、この体の傷と、手に持ったボガロの腕だけだった。
通りを見下ろすと、町を行きかう人々の中に、彰子とリテラの姿があった。明るく談笑しながら街中を見て回る二人の姿を見て、真悟の胸に怪我とは別の痛みが走った。
ボガロの町で戦いの後、佐久間の姿は結局見当たらなかった。大勢が傷つき、命を落としたあの混戦の中、一人の人間がどうなったかを探す方法は皆無に近かった。
最終的に、真悟達は佐久間が生きている事を彰子に伝えない事にした。悲しませるだけだからだ。死んだと思っていた者が生きていて、しかもそれは自分達の敵に回っていた。しかもそれを知った時には、生きているか死んでいるか分からなくなっているなど悲しすぎる。
秘密を抱える事は確かに心苦しいが、今の真悟に一体何ができるだろうか。
(これで良かったんだ)
無理にでもそう思う事にした。彰子にとって、研究室の皆は大切な思い出のはずだ。その思い出を汚す事はない。
「ここにいたのか」
不意の声に振り向くと、銀の虎が音を立てず近づいてきていた。ガーディはいつも、ほとんど音を立てて歩かない。
「私を呼んだだろう。一体何の用なんだ?」
「ちょっとね。二人で話がしたくってさ」
真悟は屋上を走る配管の一つに腰かけた。
「ガーデウスの調子はどうだ?」
「一部の傷は深かったが、問題はない。もうじき修復が完了するだろう」
「ならよかった。ボーガ・ゴーマの残骸の方は?」
「あれをガーデウスに組み込みたいと思っているが、難しいな。まだ調査中だ」
ガーディは事もなげに語っているが、地球で同じことをやろうと思えば国家規模の巨大な施設と人員が必要となる事だろう。真悟も機能は分かっているが、あの機械の体がひとりでに修復されたり、別の亜神を取り込むというのは、どうにも不思議な気分だった。
ガーディは真悟の傍らに座り、真悟の言葉を待った。そんな雑談だけか、と言いたげな表情に、真悟は本題に入った。
「ガーデウスとリンクするようになってから、夢を見るんだよ。どこかも分からないような場所で、俺はガラス張りの箱の中にいて。外にいる人が『忘れないでくれ』って、そう話しかけるんだ」
ガーディが眉を寄せるのを見て、真悟は想像が間違っていない事を理解した。
「やっぱり、お前も見た事があったんだ。なんとなくそんな気がしてたんだ」
「そうだ。私に唯一あった記憶と呼べるようなもの、それと同じ内容だ。これはつまり、知識や情報だけでなく、私達の記憶もリンクしかかっているという事か?」
「どうかな。それより気になる事があるんだ。忘れないでくれ、そう言った後、その人は地球について語ってるんだ。カーマ・ガタラと亜神の事を地球に伝えてくれって」
ガーディが目を見開いた。
「それは私の記憶にない」
「そうなのか。こっから先は俺の想像でしかないんだけど、その人達は俺達をカーマ・ガタラに飛ばした球体を作った人達だと思うんだ」
ガーディは何も言わず、真悟の言葉を待っている。真悟は話を続けた。
「もともとあの球体は、ここで働かされている地球人の科学者達が、地球に自分達の事を伝える為に送り出したものだったんだ。今俺の頭の中にある知識は、地球人にカーマ・ガタラと亜神の情報を伝える為に球体に埋め込まれた情報なのかもしれない。誤作動を起こしたのか、俺達はカーマ・ガタラに連れてこられたわけだけど……」
「面白い話だし、ありえる話ではあるが、結局は想像に過ぎないな」
「かもね。でも希望は見えたよ。あの球体を作った人達を探し出せば、俺達は地球に帰る事ができるかもしれない。いや、必ず帰ってみせる……!」
このカーマ・ガタラに来て、初めて見えた希望の光だった。人は希望があればなんでもできる。かつて真悟が夢見た、カーマ・ガタラに着く希望は、奇妙で不本意な形だが叶えられた。今度は帰る番だ。その夢を叶える為に、強く生き抜いてみせる。
「この事について話したかったんだ。俺はみんなと一緒に地球に帰る為に、ここで戦っていくつもりだ。俺に付き合ってくれるか?」
「……いいさ。どうせ私には行くところもやる事も、思い出もない。この先の思い出を作るなら、君と一緒の方が楽しそうだ」
真悟は笑った。この先どうなるかは分からないが、確かにガーディと一緒なら楽しくなりそうだ。
空はただ青かった。




