4.とんだ茶番劇
悪鬼にさらわれた愛娘を救い出して欲しいと、泣き暮らしていた伯爵夫人の願いを叶えようと動いたのは、夫である伯爵ではありませんでした。
夫人がひたすら頼りにしていたにもかかわらず、伯爵はとうの昔に悪鬼の毒にやられ、その軍門に下っていたのです。
そのことを知った時の夫人の心の痛手は、どれほどつらいものであったでしょう。
悪鬼に蹂躙されているであろう愛娘を取り返して欲しいと願う親心が、夫の中に無いとわかった時の衝撃は耐えられないものでした。
夫人は長く泣き伏すこととなります。嘆いて嘆いて、ひたすら嘆いて、身体を壊すほど嘆いて。
そして気づいた時には、既に何もかもが悪鬼の手に陥っていたのです。
嘆きの淵から戻ってみれば、夫人の周囲は一変していました。
嘆きを理解してくれていた者達が、いつの間にか周囲から排除されていたのです。
手足となって動いてくれていた馴染みの侍女達が、気づかないうちに入れ替わっていました。
愛娘の将来を夫人と一緒に親身に考え動いてくれていた者達が、一人もいませんでした。
新しい侍女達は、よく仕えてくれます。
沈みがちになる夫人の心を明るくしようと、心配りを怠りません。流行の食べ物や衣装、装身具、そして誰もがこぞって見たがっているというお芝居、楽しくなることを夫人に次から次へと勧めてくれます。
でも、夫人の本当の願いは叶えてくれません。
そればかりか、愛娘が幸せに暮らしているのだと、誰もが口を揃えて言うのです。
あんな辺境の荒れ地で、醜い冷酷な悪鬼と幸せに暮らしているはずなどあるわけがないのに。
悪鬼が娘を逃がさないよう、きつく縛り付けているだけに違いないのです。
嘆きの淵に沈んでいた夫人が、本当に立ち直ったのは幼馴染みのおかげでした。
悪鬼の住まう領内に分け入り、愛娘を取り戻そうしてくれたのは夫人の幼馴染みの配下の者達でした。
見目麗しいその姿は、愛娘の相手としてふさわしい者達ばかりです。彼等の姿を見れば、目が覚めるはずだと確信したのです。
彼等が愛娘を連れて凱旋してくるのを、心躍らせて待ちました。
けれども、朗報はもたらされません。
待ち続ける夫人の無聊をなぐさめ続けたのは、幼馴染みです。
愛娘のことを考えると落ち込んでしまう夫人に、流行の食べ物や衣装、装身具、そして誰もがこぞって見たがっているというお芝居、楽しくなることを次から次へと勧めて連れ出してくれます。
月日は飛ぶように過ぎ去っていきます。
夫人が心待ちにしていた朗報は、とうとうもたらされることはありませんでした。
愛娘を取り返すという願いは果たせなかったけれども、夫人の心は幼馴染みによってなぐさめられたのでした。
豪華本を前に、伯爵は首を傾げた。
「これは売れるのか」
「前作に比べれば格段に少なくなっているのですが、それなりに買われているようです」
「これで売れるのか」
「……奥様方に。窮地に陥っている既婚女性を幼馴染みが支えるというのが、琴線に触れる方が少なからずいらっしゃるようです」
「幼馴染みか」
「幼馴染みです」
夫人のお気に入りとなっている男は、伯爵が命じた通りに動く人形である。
夫人が夫の紹介で男と初顔合わせをしてから、まだ一年も経っていない。
その時、昔から見かけたことがあると在りし日の輝いていた夫人の姿を、憧憬の感情をこめて男は語ったのだ。見事な語りに、頬を染めて夫人はからめとられた。
男が、幼馴染みになった手腕を伯爵は買ったのだ。愛娘夫婦にいらぬお節介を焼かぬようにと。
その顛末が、この豪華本である。
「奥様があちらに送る手配をされているのですが、いかがしましょう」
「これを読ませて何の益があるのだ」
「……わかりかねます」
「正直に言え」
「父親と違って母親がどれほど心配しているかわかって欲しい」
「それから?」
「言うことを聞かねば見捨てると脅しをかけているのではないでしょうか」
「それで?」
「まだまだ殿方にちやほやされているのを知らせたい」
「……それだろうな」
王都にまで流れてくる愛娘夫婦の仲の良さに、心惑わされているのだろう。実家の権勢があるとはいえ、それだけが取り柄だと思っていた娘に大の男が尽くしきるのが信じられないらしい。
娘の良さを母親が一番理解していないのが寂しい限りの現実だった。
いや理解しているから、張り合おうとしているのか。
「いつかはその手に届いてしまうのだろう。どうせ知るのなら早い方が対処の仕様がある。そのまま配送しておいてくれ。それから、読んだ感想を私が聞きたがっていたと伝えてくれればいい」
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母から届けられた豪華本を前にして、実家からの使いに父への伝言を頼んだ。この本の感想を聞かして欲しいという父の願いを叶えなければならない。
封書にしようと紙を前に何か文言をとねばってみたのだが、どう書いていいのやら思いつかなかった。
母が幼馴染みにうつつを抜かしていることを正々堂々とここまで世間に知らしめられて、父は何とも思わないのかと聞いていいものなのか。
前作同様、悪鬼が素晴らしく格好いいと書き連ねてもいいのかどうか。ますます際立った風貌に心ときめいてならない。きっと筆が暴走してしまう。
何を書いても、あきれられてしまうような気がしてならない。書くのは早々にあきらめた。
「贈られた本の通り、幸せに暮らしていると伝えてもらえれば」
私の言葉に使いが、承りましたと頭を下げた。辞去しようとする使者を押しとどめ、側に付き添ってくれていた夫が、神妙な顔で尋ねてきた。
「この本のどこに、少女が幸せに暮らしたという記述があるのだろう」
夫の言葉に、荒れ狂う嵐の中で悪鬼が少女を抱き締めてる挿絵の頁を開いてみせた。
見る度に心臓が高鳴ってしまう素敵な絵だった。
「素敵ですよね。嵐の中、我が身を盾に少女を守ってくれていて」
「……画家は、嵐を巻き起こしているのは悪鬼だと」
「まあ、そんな解釈が……。でも、それも素敵ですわね。取り戻させないよう嵐まで起こしているなんて」
「そうだな、嵐ぐらい起こしてしまうだろうな」
夫は辞去を押しとどめていた使者に、義父によろしく伝えてくれと退出を促した。
「抱き締められるのが好き?」
「はい」
力強く抱き締められたあと、夫が描かれた二人の様子を楽しそうになぞりだした。
えっと身じろげば、挿絵を指差される。確かに、少女の片肌が見えている。
こんな明るい中、恥ずかしくて死にそう……。




