第一話 ガトー級潜水艦 グラニオン 1942
■1942年(昭和十七年)7月31日 深夜
キスカ島 東方海上
米海軍 潜水艦 SS-216 グラニオン
濃霧に包まれた夜の海に一隻の潜水艦が浮上していた。
空は晴れ月も明るく輝いてはいるが、海上はスープを流したような白い霧に覆われている、
こんな状況では見張りは何の役にも立たない。獲物を見つけるにはソナーだけが頼りだった。
「QBソナーに反応ありました!」
その待望の報告に発令所内が色めき立った。
「やっと見つけたか!相手は?」
艦長のエベール少佐が興奮気味にソナー員に確認する。
「方位220、距離4マイル(約7.4キロ)、レシプロエンジンで一軸推進です。おそらく単独の貨物船と思われます」
「おあつらえ向きの獲物ですね。艦長、やりますか?」
「当然だ副長。これで帰投前にまた一つスコアを伸ばせそうだ」
副長の問いにエベール少佐は獰猛な笑みで答える。
グラニオンは、ガトー級潜水艦の5番艦としてわずか3ヵ月前に就役したばかりの最新鋭艦であった。初の任務航海としてパールハーバーを出撃してからもうすぐ一カ月となる。
2週間前に敵の駆潜艇2隻を撃沈する戦果を挙げたものの、そのおかげで日本軍が警戒を強めてしまい戦果を挙げられなくなっていた。魚雷も残り10本となり、昨日には司令部からダッチハーバーへの帰投を命じられている。
「2週間ぶりの獲物だ。粘った甲斐があったな」
今日一日だけ粘って獲物が見つからなければ命令通りダッチハーバーに向かうつもりだったエベール少佐にとって、独航の貨物船という獲物の発見はボーナスのようなものだった。
「こいつを上手く食えたら、ダッチハーバーで俺が全員に酒を奢ってやろう」
艦長の言葉に司令塔内が沸きたった。
「エンジン始動!両舷全速!このまま距離を詰めて先回りするぞ!」
グラニオンは浮上したまま輸送船の予想進路に向けて進んでいった。そしてついに濃霧が晴れた隙間に、見張りから待望の報告が入る。
「輸送船が見えました!方位25、距離2マイル(約3.7キロ)、およそ15ノットでキスカ島に向かっています」
「周囲に他の艦船や航空機は見えるか?」
「見えません。1隻のみです。護衛の姿はありません」
「SDレーダーで敵機を確認しろ。発振は2秒だ」
「反応なし!周囲に航空機はいません」
「いいぞ!ようやく日本人も警戒を緩めたようだな。これより潜航して接敵する。TDCは追跡を開始しろ!」
興奮を隠そうともしない艦長の様子に少々不安を感じた副長が小声で言った。
「艦長、我々はすでに敵艦を2隻撃沈しています。初の任務航海としては十分以上の戦果です」
「……だからどうした副長、何が言いたい?」
エベール少佐は副長に胡乱げな目を向ける。
「艦長が少々興奮されていると感じたもので。艦の安全は艦長の冷静なご判断にかかっています。司令部からは帰投命令もでています。もし少しでも危険があれば安全を優先することを約束してください」
新たな戦果のチャンスに水を差すような副長の物言いに、エベール少佐は煩そうに答えた。
「おいおい、相手はただの貨物船だぞ。それに任務には危険がつきものだろう?」
それでもじっと答えを待つ副長に、エベール少佐は仕方なさそうに言った。
「分かったよ。副長の意見にも一理ある。もし危なくなったら、さっさと逃げることを約束しよう」
「……分かりました。約束を忘れないようにしてください」
副長も渋々みとめたため、エベール少佐は目標への接近を継続した。
■1942年(昭和十七年)7月31日 早朝
キスカ島 東方海上
日本海軍 特設運送船 鹿野丸
「結局、第26号駆潜艇には出会えずか……」
「余計な拾い物をする羽目にもなりましたしね」
監督官の相浦大佐の愚痴に、船長の森久大尉も渋い表情で同意した。
特設運送船では船の運航は船長が、軍事関連は監督官が指揮をとることになっている。どちらも現役を引退した予備役士官であるため会話も気楽なものだった。
この日、鹿野丸はついていなかった。
鹿野丸は、本来ならば昨日のうちに第26号駆潜艇と合流し、その護衛を受けながらキスカ島に入港する手はずだった。
しかしここ数日の濃霧で第26号駆潜艇とは結局合流できず、逆に発動機の不調で不時着水していた二式水上戦闘機を救助揚収するという余計な仕事も抱え込んでいる。
しかも護衛がいないという理由で鹿野丸は洋上で待機を命じられていた。
日が変わり31日の明け方になって、無線室から報告が届けられた。それを一読した森久大尉が溜め息をついて相浦大佐に顔を向けた。
「キスカの警備隊からです。危険は無いので護衛無しでさっさとキスカ島に入港しろ、だそうですよ」
それなら何のために待機させていたのか。そのいい加減な指示に相浦大佐も呆れ顔だった。
「……まあ霧も晴れたことだし、言われた通りさっさと港に入っちまおうか」
「監督官、之字運動は行いますか?」
「警備隊の話では危険は無いのだろう?駆潜艇を2隻も食われたせいで随分と念入りに掃討作戦をやったらしいからな」
「それならば安心ですね」
2週間前に第25号駆潜艇と第27号駆潜艇が立て続けに潜水艦に撃沈されていた。このためキスカ島の対潜警戒は一時的に跳ね上がっていた。
だがここ最近は新たな襲撃が無かったことから、その警戒態勢も緩んでいたことを鹿野丸は知らされていなかった。
■1942年(昭和十七年)7月31日 早朝
キスカ島 東方海上
米海軍 潜水艦 SS-216 グラニオン
大胆かつ慎重に鹿野丸の進路に先回りしていたグラニオンは、潜航したまま鹿野丸の右舷前方1000メートルの位置についていた。
「ソナー、付近に目標以外の音源は?」
潜望鏡で追跡しながらエベール少佐は最終確認を行った。脅威はないはずだが声は小さい。乗員らも襲撃に備えて緊張している。
「目標以外の音は聞こえません」
「レーダー、敵機の反応はないか?」
「反応ありません」
「TDC、用意はいいか?」
「良好にトレースしています。ランプ点灯中。いつでも発射できます」
「よし。1番発射。2番発射」
鹿野丸に向けて、グラニオンの艦首から2本のMk.14魚雷が発射された。
■日本海軍 特設運送船 鹿野丸
船橋の緩んだ空気は見張りの悲鳴のような声で破られた。
「右舷前方より魚雷来ます!2本!」
「面舵一杯!魚雷側に船首を向けろ!」
森久大尉が叫ぶように指示に運転士(総舵手)が勢いよく舵輪を回す。鹿野丸は左舷に大きく傾きながら進路をゆっくりと変え始めた。
「駄目です!間に合いません!」
「総員!右舷より魚雷がくる!衝撃に備え!」
森久大尉が伝声管に怒鳴った。
数秒後、魚雷のうち1本は艦首をかすめて過ぎ去ったが、もう一本が船尾に命中した。
爆発音とともに機関音が聞こえなくなり船内照明が消えた。推進力を失った鹿野丸はゆっくりと漂流しはじめた。
薄暗くなった船橋で森久大尉が次々と指示をだす。
「損害を報告しろ!通路扉の閉鎖を急げ!」
船橋に次々と報告が届けられる。それはどれも深刻なものばかりだった。
「被雷箇所は右舷機関室です。全機関停止しました」
「発電機室が損壊。全電力が落ちています。即時の復旧困難です」
「後部甲板、爆圧で甲板が膨らんでいます。後部砲は台座ごと脱落。使用不能です」
鹿野丸は航行不能となった上に電源を喪失し通信で救助を呼ぶことも出来なくなってしまった。しかも貴重な反撃手段である2門の8センチ砲のうち1門も使用不能となっている。
そこへ見張りからようやく敵潜水艦発見の報が入った。
「船首方向に潜望鏡らしきもの!距離1000!」
「以後は本官が指揮を執る!砲戦準備!急げ!」
これからは明確な軍事行動となるため、それまで黙っていた監督官の相浦大佐が怒鳴るように命令した。
「目標、前方の潜水艦!潜望鏡付近にありったけ弾を叩きこめ!」
艦首の8センチ砲と船橋の13ミリ機銃が、潜望鏡のあたりの海面に向けて銃砲弾を叩きこみはじめた。
■米海軍 潜水艦 グラニオン
爆発音が聞こえてきた。しかしそれは一つだけだった。2本の魚雷のうち1本は外れたらしい。撃沈したならば必ず聞こえるはずの沈没音も聞こえてこない。代わりに多数の細かな着水音が聞こえ始めた。
「残念ながら命中は一本だけだ。目標は停止したが、まだ浮いている。こちらに向けて砲と機銃を撃ちはじめた。効果もないだろうに無駄なあがきだな」
潜望鏡を覗くエベール少佐の口元にあざけるような笑みが浮かぶ。
「とどめを刺しますか?」
「もちろんだ。3番発射」
副長の問いにエベール少佐は即答した。グラニオンから更に一本の魚雷が発射される。
目標は停止している。外れる訳がない。だがいつまで待っても期待する命中音は聞こえなかった。
「……艦長、どうやら魚雷は目標の下を抜けてしまったようです」
副長が申し訳なさそうに事実を告げた。
「はあ?調定深度は変えてないだろうが!忌々しいポンコツ魚雷が!」
エベール少佐が思わず悪態をつく。
グラニオンの不運はここから始まった。
【あとがき】
この話、グラニオンが鹵獲されたこと以外は『ほぼ史実』なんですよね……敵も味方もツッコミどころが多い戦いです。
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