第1話 カルビン・マドックス
中世の始まり、異次元からの来訪者が現れた。エルフと呼ばれた彼らは、人類の発展を助けるべく「マナ結晶」と「魔法科学」をもたらした。ただし、一つの条件と共に。――人類がそれに依存しすぎないこと。
こうして、魔法と科学が共存する進歩の時代が幕を開けた。
すべては平穏だった。……あの日が来るまでは。
1983年2月10日。遺伝子にマナを宿した最初の人類――「ホモ・マジクス」、別名メタヒューマンが誕生した。彼らは自らのエネルギーを固有の「能力」へと変換した。それは便利な力から、妙なもの、そして……破滅を招くほど危険なものまで様々だった。
2056年。国家はメタヒューマンを「兵器」として投入し、世界は混沌に包まれた。制御不能となった人間兵器たちの殺戮欲は止まることを知らず、ただ死を撒き散らした。
その結果、エルフたちは絶望し、自らの次元へと去っていった。
終わりのない紛争の末、ようやく平和を求めた人々が立ち上がった。自らのメタヒューマンを用い、暴走する者たちを葬ったのだ。戦争は止まった。……だが、引き換えに失ったものはあまりにも大きかった。
世界人口の96.5%が消失。
廃墟と静寂に包まれた世界。しかし、2117年6月8日。「中央連合」が設立される。これが新世界の礎となり、人類はメタヒューマンの力を借りて、再び社会を再建し始めたのである。
時は2321年。ここから物語が始まる。
窓から差し込む朝日が、空中で舞う埃の粒を照らし出していた。
その光の中、若きメタヒューマンのカルビン・マドックスは、鏡の前でネクタイの結び目を整えていた。十八歳の彼の姿は、色白の肌に少し乱れた茶髪の若者だった。しかし、その茶色の瞳には、何ものにも曇らされない決意の光が宿っている。
彼は腕に革のフォルダーを挟んだ。何度も練習したせいで、その角はすでに少し擦り切れている。
木製の階段を降りると、足元で馴染みのあるきしむ音が響いた。一階から漂う酵母と砂糖の香りが、まるで抱擁のように彼を包み込む。
小麦粉のついた手のまま、母は彼が降りてくるのを見てカウンターのそばで立ち止まった。息子の正装に気づくと、優しい笑みが彼女の顔に浮かぶ。
「おはよう、カルビン。その特別なネクタイを締めたのね」
母はエプロンで手を拭きながら言った。
「おはよう、母さん」
カルビンは笑顔を返し、シャツの襟を直した。
「うん、今日は運がいい気がするんだ。もしかしたら、今日中に何件ものオファーから選ぶことになるかもしれないよ」
母は静かに息をつき、台所の温もりが沈黙を満たした。
「ねえ、前にも言ったでしょう? そんな重荷を背負う必要はないのよ。パン屋の仕事なら私一人でやっていけるわ。大学を探してみたらどう? 費用は私がなんとかするから」
カルビンはきっぱりと首を横に振った。
「それでも、自分の価値を証明したいんだ。自分の力で生きて、自分の居場所を掴み取りたい」
鞄の重みが、自らの目標を再確認させるかのように手に伝わる。
母は彼の頑固さを認め、軽く笑った。しかし、その表情はすぐに一変した。軽やかさは消え、深みと重みのある眼差しに変わる。小さな部屋の空気は重くなり、ほとんど厳粛なほどになった。
「時間の問題だったわね……でも、一つ約束して、カルビン」
「何、母さん?」
ドアノブに手をかけながら、彼は足を止めた。
「この新しい人生で出会う人たちに……あなたがどんな人間なのかを、ちゃんと覚えてもらって。あなたの価値を、見せつけてきなさい」
カルビンは頷き、胸の奥に熱い誇りを感じた。
「……ああ、そうするよ」
外に出ると、街の喧騒が彼を飲み込んだ。パンの香りに代わってアスファルトの熱気がまとわりつき、そこからの数時間は、ただドアが開閉するだけの空虚な反復に変わった。
どのオフィスでも、儀式は同じだった。カルビンは手のひらの汗を悟られぬよう拳を握り、背筋を伸ばして、モニターから目を上げようともしない採用担当者の前で自分を差し出した。
「……以上が私の経歴です。実家のパン屋では、焦げる前に問題を解決する術を学びました」
必死の訴えも、目に見えない壁に跳ね返される。無関心な声が彼を切り刻む。
「君は、我が社に何をもたらせる?」
カルビンは口を開くが、言葉は喉に張り付いて出てこない。朝の熱意は蒸発し、腕の中のファイルは鉛のように重くなっていった。
――最後の面接は、夕焼けが冷たい闇に飲み込まれた頃だった。
「率直に言おう」
面接官はメスのように鋭い眼差しで告げた。
「我々が求めているのは、仕事に適した人材だ。だが、君にはそれが見当たらない」
胃の奥がせり上がるような感覚。カルビンは膝の上で拳を固く握りしめた。
「そんな……チャンスさえあれば、証明できます」
「君が『何ができるか』など、どうでもいいのだ」
男はカルビンの書類を叩きつけるように閉じた。
「我々が求めているのは、君の『価値』だ。君が何者であるか、だ。価値なき者に、居場所はない」
視線を落とすと、床の傷がひどく歪んで見えた。
「……俺には、価値がないのか?」
絞り出すような呟きに、面接官は無慈悲に応える。
「そういうことだ」
カルビンは立ち上がった。その動きは、糸の切れた人形のようにぎこちない。
「お時間を、ありがとうございました……」
「気をつけろ。この時間、この辺りの影には――牙が生えている」
独り言のような警告を背に、カルビンは部屋を出た。ドアが閉まる静かな音は、まるで彼の人生の一章が、残酷に断ち切られた合図のようだった。
彼はあてもなく歩き続けた。足が勝手に進むまま、頭の中ではあの男の言葉が呪詛のように繰り返される。遠くに浮かぶ淡い月が、街灯の冷たい光と混ざり合い、アスファルトを銀色に染め抜いていた。
やがて彼は、重厚な建築物が立ち並ぶエリアへと足を踏み入れた。両側には巨大な鉄筋コンクリートの壁がそびえ立ち、戦時中の遺物として崩落を拒むかのように佇んでいる。古い構造物の上を、眠れる巨人の静脈のごとく近代的な排水管がうねり、夜の湿気の中で不気味に光っていた。
街の中心にある人工湖のほとり。目の前には草木に覆い尽くされた廃墟が広がっている。空気はより冷たく、淀んだ水と錆びた鉄の匂いが漂っていた。カルビンは身をかがめて平らな石を拾うと、長年溜め込んできた苛立ちをぶつけるように、滑らかな動作でそれを投げた。
石は水面を切り裂き、三度跳ねた。――パチャ、パチャ、パチャ。そして、闇の底へと沈んでいった。
彼は、ダムに近い高台に立っていた。そこから見下ろす大都市は、人工の光がうごめく海のようだった。広大で、冷淡で、彼の存在など微塵も意に介していない。
「母さん……」
彼は囁いた。特注のネクタイが、今は首を絞める縄のように感じられた。
「俺に価値なんてあるのか……自分でも、もうわからないんだ」
溢れ出しそうな感情を抑え込むように、指の関節が白くなるまで拳を握りしめた。その時、夜の静寂が唐突に破られた。背後で、枝が軋む音がしたのだ。カルビンは跳ねるように振り返った。心臓が肋骨を激しく叩く。
月明かりの中に、奇妙な人影が浮かび上がっていた。男の服はボロボロだったが、何より異常だったのはその頭部だ。顔を隠すように金属製のバケツを被り、その表面には赤いペンキで、歪な「笑顔」が描かれていた。描かれた目は、狂気じみた喜びを湛えて彼を凝視している。
「おや、おや……。こんなところで一人、何をしているんだい? 坊や」
金属質の声がバケツの中で反響し、嘲笑を含んで響く。
カルビンは立ち上がり、足の震えを抑えつけた。描かれた笑顔から視線を逸らしてはいけないと、本能が告げていた。
「子供扱いするな」
彼は威嚇するように言い返した。
「俺はメタヒューマンだ。怪我をしたくなければ、消えろ」
言葉とは裏腹に、内心は恐怖で塗り潰されそうだった。自分の中に「力」が眠っていることは知っている。だがそれは、いまだに飼い慣らすことのできない、正体不明の野獣のようなものだった。
「メタヒューマンか……」男は鼻を鳴らした。「なら、互角だな」
男はベルトに手をかけると、錆びついた巨大な油圧レンチを引き抜いた。直後、金属が狂ったように振動し、不自然なほどに巨大化していく。それは一瞬にして、重厚な鉄のメイスへと変貌を遂げた。
その異様な威圧感に、カルビンは喉を鳴らした。だが、後ずさりはしない。彼は身をかがめて地面の石を拾い上げると、目を閉じて意識を研ぎ澄ませた。
指先から、ネオンのように鮮やかで強烈な「赤」のオーラが湧き出し、石を包み込む。カルビンは全力を込め、破壊的な爆発を確信してその石を放った。
――だが、石が放物線を描く途中でエネルギーが霧散した。
「……ぷっ」
情けない音と共に石は空中で弾け、テニスボールほどの小さな赤い火花を散らしただけだった。
「くそっ……」
カルビンは苛立ち紛れに、手のひらで額を叩いた。
バケツの男は硬直した。風の音だけが響く、死のような静寂がその場を支配する。
「な……何だ、今の?」
男は、純粋な困惑を隠しきれずに尋ねた。
「あれが……僕の力、かな」
カルビンは顔を赤くし、恥ずかしそうに肩をすくめた。
男はバケツの中で甲高い笑い声を上げ、その音は周囲の壁に反響した。しかし、笑いは突如として途切れる。男の構えが、冷酷な攻撃性へと一変した。
「……走れ」
カルビンは二度言われるのを待たなかった。踵を返し、土を蹴立てて全速力で走り出す。一瞬、足がもつれそうになったが、生存本能がそれを許さない。
背後から、重い足音が迫る。男は片手で巨大なレンチを振り回し、もう片方の手でバケツが飛ばされないよう押さえながら追ってくる。滑稽な光景だが、追い詰められている側にとっては悪夢でしかなかった。
突然、足元に突き出ていた瓦礫に足が引っかかった。視界が激しく回転する。立ち上がる間もなく、男はすでに目の前に立ちはだかっていた。
唸りを上げて、油圧レンチが振り下ろされる。
直撃。
カルビンの体は布人形のように空中に放り出された。衝撃で意識が遠のく中、冷気が一気に全身を襲う。
湖の水が彼を飲み込み、世界の音をすべて消し去った。
カルビンは水中で目を開けた。濁った水の中、差し込む月明かりが底に沈む金属の輝きを浮かび上がらせていた。彼は必死に体を支えるものを探し、冷たい「柄」を掴んだ。
――それは、剣だった。
瓦礫の山に深く突き刺さった、長く優雅な刃。誰が何のために残したのか、そんな理屈を考える余裕はなかった。ただ、生きるために彼はその剣を渾身の力で引き抜いた。
瞬間、全身を電撃のような衝撃が駆け抜ける。
それまで制御不能だった不安定な赤いエネルギーが、手から刃へと流れ込み、金属を新たな強振で震わせた。
一方、岸辺ではバケツの男が水面の気泡を冷酷に見つめていた。少年は二度と浮上しない。そう確信していた。
「ちっ……」男は忌々しげに吐き捨てた。「殺しちまったか。また金を巻き上げられるカモを探さなきゃな」
言い終えるや否や、銀色のしぶきと共に水面が炸裂した。カルビンは激しく息を吐きながら浮上した。茶色の髪が額に張り付き、瞳にはアドレナリンの炎が宿っている。右手の剣からは水が滴り、その刃は未知のエネルギーを纏って唸りを上げていた。
男はバケツの中で、乾いた笑い声を響かせた。
「おや、おや……。小魚はまだ生きていたか」
男は油圧レンチを握り直す。
「いいか。このまま沈みたくなければ、財布をよこしてこの馬鹿げた話を終わりにしよう。なあ?」
カルビンは膝まで水に浸かりながら前へ進んだ。全身の筋肉が悲鳴を上げていたが、彼は歯を食いしばり、冷たい剣の柄を唯一の希望として握りしめた。
「……そうはいかない」
掠れた声。だが、その口調には毅然とした意志があった。
「なら、死ね」
襲撃者は水の中へ飛び込み、激しいしぶきのカーテンを巻き上げた。重い「鍵」が、腕を叩き折らんとする勢いで一度、二度、三度と振り下ろされる。カルビンは必死にそれを受け流した。金属同士がぶつかる衝撃が、手首から肩へと痛烈な振動となって走る。
死の直撃が髪をかすめる瞬間、カルビンは身を屈めた。
敵の勢いを利用し、彼は鋭く踵を返して剣を一閃させた。
――鈍い衝撃音が湖全体に響き渡る。
刃はバケツの正面を捉え、鋼鉄を食い破り、描かれた「笑顔」を醜く歪ませた。相手が怯む隙を逃さず、カルビンは絶望のすべてを込めた拳を、男の腹部へと叩き込んだ。
男はよろめきながら後ずさり、周囲に水を跳ね散らしながら、喉の奥から呻き声を絞り出した。
「この、クソガキが……ッ!」
男は咆哮し、盲目の怒りに駆られて再び襲いかかってきた。カルビンの目には、世界の流れが不自然に遅延していくように見えた。本能に従い、胸の奥で沸き立つ赤いエネルギーのすべてを右腕へと注ぎ込む。
剣は眩いばかりの緋色の輝きを放ち、空気を切り裂く衝撃波を撃ち出した。
衝撃が男の胸を直撃し、その巨体を数メートル後方へと吹き飛ばす。
蒸気が晴れると、男は精根尽き果てた様子で膝をついていた。バケツの縁から暗い血が一筋滴り落ち、湖面を赤く染めていく。カルビンは剣を下ろし、その光景に心臓が凍りつくのを感じた。
「……すまない」
胃の底を抉られるような空虚感。彼は口ごもりながら言葉を繋いだ。
「そんなつもりじゃ……血を流させるつもりなんてなかったんだ」
「黙れ!」
男は震える手で血を拭い、吐き捨てた。
「傷つけるつもりもなく攻撃しただと? 救いようのない馬鹿か……お前、一体どんな『戦士』だ。俺にはただの哀れなガキにしか見えん」
男はレンチを握りしめ、最後の自爆攻撃を仕掛けようと立ち上がる。しかし、一歩を踏み出す前に、カルビンの目の前で空気が歪んだ。
――一瞬の閃光。
まるで別の次元から引きずり出されたかのように、一人の男が「そこ」に現れた。
男は一言も発さず、外科医のような正確さで鋭い拳を放ち、バケツの脇腹を打ち抜いた。乾いた音が響く。襲撃者は抵抗する間もなく地面に倒れ伏し、意識を失った。
現れた見知らぬ男は、黒髪で髭を綺麗に剃り整えていた。ネクタイが僅かにずれている以外は完璧なスーツを纏っている。彼はスーツの埃を払い落とすと、退屈と軽蔑が混じった表情で倒れた男を見下ろした。
「最近の犯罪者共はどうなっている」
彼はシャツの袖口を直しながら、深くため息をついた。
「知能の低下が著しいな」
男はゆっくりと振り返り、水の中に立ち尽くし、ずぶ濡れで震えているカルビンを見た。
「奴を弱らせてくれたことに感謝するよ」
男は動じることのない冷静さで付け加えた。
「こいつは『ザ・フィクサー』。この界隈では名の知れた指名手配犯だ。おかげで数分間の追跡の手間が省けた」
「……あんたは、誰だ?」
びしょ濡れの服から滴り落ちる水。カルビンは剣の柄を握りしめたまま、かろうじて声を絞り出した。
男は、その荒廃した湖には不釣り合いなほど優雅な仕草で、再びシャツの袖を整えた。
「ああ、失礼。自己紹介が遅れたね」
男は冷徹な、しかし確かな力を持つ瞳でカルビンを射抜いた。
「私の名は、トーマス・ブルーフォード。WDAS第12部隊の副隊長だ」
カルビンは体を起こそうとしたが、脇腹に鋭い痛みが走り、再び前かがみになった。空いている手で肋骨を押さえ、痛みに呻き声を漏らす。
「……っ。本気でやられたみたいだ」
「とんでもない一撃だったからな。あんな衝撃を受けて立ち上がれる奴など、そうはいない」
トーマスは臨床医のような冷静さで告げた。彼は意識を失った「ザ・フィクサー」を一瞥し、再びカルビンに視線を戻す。
「お前はタフだな」
「……ただ、身を守っただけさ」
カルビンは息を整えながら答えた。
「メタヒューマンだからな。生き残るのに多少のアドバンテージはあったんだろう」
トーマスは悪意のない短い笑いを漏らし、傍らに置かれたハイテク仕様の杖を指さした。
「誰もがその幸運に恵まれるわけじゃない。私が歩くのにこの杖を必要としたのにも、それなりの理由がある。……もっとも、今ではほとんど飾りだがね」
彼はリラックスした口調だったが、その瞳はカルビンの一挙手一投足を冷徹に分析していた。
「さて、この道化師の処理は、あと数分で当局がやってくれる。家まで送ろうか? この辺りの『闇』は、私ほど友好的ではないのでね」
カルビンはボロボロになった服を見下ろし、夜の冷気が骨の髄まで染み渡るのを感じた。
「……ぜひ、お願いします」
「よし、行こう。シートにはヒーターがついている。今の君には必要だろう」
しばらくの間、車内の静寂はエンジンの静かな唸りと、ワイパーが刻むリズムだけによって守られていた。
「教えてくれ、カルビン」
トーマスは前を見据えたまま、沈黙を破った。
「君の能力は、正確にはどう機能している?」
カルビンは、膝の上に置かれた剣へと視線を落とした。金属には、まだ自分のエネルギーの熱気が残っている。
「……よく分からないんだ」
彼は正直に認め、指で刃をなぞった。
「今までは、物体にエネルギーを溜めて爆発させるだけだと思ってた。でも……この剣を手にした時、何かが変わった。自分のエネルギーを導体として、物理的な物体を通して流し込める。そんな感覚があったんだ」
トーマスは顎に手を当て、思案げな表情を浮かべた。
「興味深いな。純粋な導通能力は稀だ。そして、極めて有用だ」
街の明かりが彼の横顔を照らし出す。
「半年後、WDASの入隊選考試験がある。どうだ、私の部隊を志願してみないか? 君のような粘り強さを持つ人間は、我々にとって重宝する」
カルビンは高級な革の座席で身を縮めた。突然、自分がひどく小さく感じられた。
「……本気ですか? 僕は、バケツを被った男にさえ一人じゃ勝てなかった。自分には無理だと思います」
「まだ半年ある」
トーマスは不敵な笑みを浮かべた。
「その『原石』を磨くには、十分すぎる時間だ」
「でも、どうやって? 教えてくれる人なんて、誰もいない」
「私に大きな借りがある男を知っている」
ダッシュボードの光の下、トーマスの瞳に狡猾な光が宿った。
「だ、けど、その借りはあんたに対するもので、僕に対するものじゃない。なぜ僕のためにそれを使うんですか?」
「もっともな指摘だ。……だから、取引をしよう」
トーマスは笑みを深めた。
「私がその借りを君のトレーニングに使えば、今度は君が私に『借り』を作ることになる」
「え……?」
「そういうことだ。だから覚悟しておけ、坊主。その試練は必ず乗り越えてもらわねば困る。遅かれ早かれ、その恩はきっちり返してもらうからな」
カルビンはトーマスの理屈に諦め半分の溜息を吐いた。だが、胸の奥で決意の火花が燃え上がり、不採用通知で空いた心の穴を埋めていくのを感じていた。
「……できる限りのことは、やるよ」
「そう願おう」
家に着くと、焼きたてのパンの香りと黄色い明かりの温もりが、避難所のように彼を迎えてくれた。
紅茶を手にして待っていた母は、ずぶ濡れで傷だらけの息子を見て、飛び上がるように立ち上がった。
「お帰り、カルビン! ……って、一体どうしたの、その格好!? 面接はどうだったのよ!」
カルビンは水浸しのファイルをテーブルに置き、母の目を真っ直ぐに見つめた。
「いろいろあったんだ、母さん。……でも、もう普通の仕事は探さない。僕は、WDASの入隊試験を受けることにしたよ」
母は呆然と立ち尽くした。ティーカップが僅かに震え、彼女の顔から血の気が引いていく。
キッチンを、刺すような静寂が支配した。




