第97話 雪原の咆哮、黒き角の主
雪を蹴立て、灰色の影が跳ねた。
一匹目の狼。その動きは速いが、今の僕の動体視力なら捉えられる。
僕は空中に指を走らせた。一筆で『電撃』の文字を刻む。周囲に漂う希薄な魔力が、文字に吸い寄せられるように集まり、青白い光を帯びた。
「……『発動』!」
放たれた閃光が、空中で狼の眉間を貫いた。
キャン、と短い悲鳴。狼は雪煙を上げて転がり、二度と動かなくなった。
だが、安堵する暇はない。一発撃てば、また次の文字を書かなければならない。
「……ゆう様、囲まれています! 前方、左右、それから背後にも!すべてツノの生えたオオカミです!」
リアの鋭い声。針葉樹の影から、次々と金色の瞳が浮かび上がる。
十、二十……。周囲に魔力はいくらでもある。けれど、一発ずつしか書けない僕にとって、この数は驚異だった。
「リア、あの大きな木の上へ! 風を纏って、早く!」
「ですが、ゆう様を一人には……!」
「いいから! 上から支援を頼む。……来るぞ!」
リアが風の精霊を借りて太い枝に逃れるのと同時。群れが一斉に牙を剥いた。
僕はまだ発動している身体強化を信じ、一歩踏み込む。
指を踊らせ、一つ書いては放ち、また一つ書く。
「火の精霊さん、道を作って!」
木の上から、リアの祈るような声が響く。
彼女が呼び出したサラマンダーが炎の渦となって雪原を走り、狼たちを牽制する。
僕は必死に次の文字を刻む。その時、放たれた雷光が先頭の狼を突き抜け、その後ろの個体まで伝播した。
「……直線なら、複数を巻き込めるのか!」
僕は狼たちを誘い込むように、木々の間を縫って走った。
一匹ずつ狙うのではない。一直線に重なる瞬間を待ち、指先を突き出す。
「『電撃』ッ!!!」
閃光が、重なり合うように突っ込んできた数匹の狼を、一気に貫き、麻痺させた。
泥臭い、試行錯誤の連続。一つ書いては誘い、撃つ。
雪と汗にまみれ、少しずつ時間を掛けて数を減らしていく。
自身の魔力は減らずとも、神経を削るような集中の連続が、体力を確実に奪っていった。
そして。
群れの半数が沈んだ時、そいつが現れた。
群れの奥からゆっくりと歩み出てきたのは、牛ほどもある巨体の狼だった。
その額にも、不気味な「黒い角」が生えている。
「……っ、こいつがボスか」
僕は周囲の魔力をより強く引き込むよう文字を構成し、『電撃』を完成させた。
だが、放たれた雷光はその濡れた毛皮を滑るように弾かれ、雪を弾いただけで終わった。
「魔法が効かないのか!?」
「ゆう様、魔力の耐性が高すぎます! 物理攻撃を……!」
黒き角の狼が、雪を爆ぜさせて突っ込んでくる。
僕は腰の鉄の斧を引き抜き、迎え撃った。
ガギィィィッ!
鈍い音。鋳造の鋼が、狼の強靭な筋肉と魔力に阻まれ、表面を薄く裂くことしかできない。
「ゆう様! 私の全銀角製のナイフを……! それなら、あの角も……!」
木の上から、リアが必死に腕を伸ばす。
「いい、リアは降りてくるな! こいつは僕がやる!!」
叫んだ瞬間、狼の巨大な前足が僕の胸を打った。
吹き飛ばされ、背中から雪山に突っ込む。
視界が揺れる中、黒い影が覆いかぶさってきた。
とっさに左腕を出して防御したが、そこへ狼の巨大な顎が食らいついた。
ゴリッ、と骨の軋む音が響く。
「あ、がああああッ!!!」
身体強化で、強度の上がっているはずの、左手を噛み砕かれる激痛。肉が裂け、熱い血が雪に散る。
「ゆう様――!!!」
リアの絶叫。
けれど、僕は意識を手放さなかった。
噛みついたまま離さない狼。その至近距離、僕は右手の指先を、無理やりボスの眉間に押し当てた。
指先を激しく動かし、狼の額の上に直接、文字を刻み込む。
「『切断』……ッ!!!」
周囲の魔力を強引に一点へ凝縮させ、解き放った不可視の断絶。
狼の眉間から脳天にかけて、一筋の赤い線が走った。
「『切断』!!」
「『切断』!!!」
間髪入れずに連発する。
すると、ボスの瞳から光が消え、噛む力がふっと失われた。
どさり、と巨体が崩れ落ちた。
生き残った狼たちは、主の死を見て、蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていった。
「……はぁ、はぁ……」
僕は雪の上に横たわり、激しく脈打つ左手を見つめた。
「ゆう様! ゆう様……!」
木から飛び降りたリアが、必死に駆け寄ってくる。
彼女の顔は蒼白で、震える手が僕の傷口に添えられた。
「生命の精霊さん……お願いします、彼を、助けて……!」
リアの掌から深い緑の光が溢れ出した。
光が傷口を包み込むと、刺すような激痛が、徐々に柔らかな熱へと変わっていく。
「……リア、ごめん。……心配かけた」
「……当たり前です! なぜ、あんな無茶を……!」
泣きながら、リアが僕を叱りつける。
傷が塞がっていく中、彼女は僕の胸元を強く掴んだ。
「約束してください。独りで、死ぬような戦い方はしないでください。……わたくしたちは、二人で一人なのですから」
僕は右手を伸ばし、震える彼女の肩を抱き寄せた。
「……ああ。約束する。……もう、しないよ」
若木のドライフルーツを一粒、口に放り込む。
染み渡るような熱が、削られた体力を少しずつ繋ぎ止めていく。
北の大森林の寒風が吹き荒れる中、僕たちは寄り添いながら、凍てついた森の最奥へと、再び歩き始めた。




