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第90話 黄金の滴、収穫の苦闘


 一面の黄色い絨毯だったあの斜面は、今やカラカラに乾ききった茶色の原野へと姿を変えていた。


 初夏の陽光にさらされ、成熟した菜の花の鞘が、時折「パチン」と小さく弾ける音が聞こえる。それは、命が次の世代へと飛び出そうとする、微かな、けれど確かな合唱だった。


「……ゆう様、演算によれば、今が含水率の極小値ですわ。これ以上待てば、貴重な油脂を含む種子がすべて地面に還ってしまいます」


「よし、今日が勝負だね。行こう、リア!」


 僕たちは蔓で編んだ籠を手に、斜面へと踏み込んだ。


 だが、それは一日で終わるような甘い作業ではなかった。


 初日。


 鎌で一本ずつ根元から刈り取り、拠点まで運び込むだけで日が暮れた。


 二日目。


 広げた布の上で、乾燥した菜の花を木棒でひたすら叩く。


「カサ、パチン、カサ、パチン……」


 風の精霊が、時折いたずら半分に、叩き出された軽い殻のゴミを吹き飛ばしてくれる。


「あ、ありがとう……。でも、あんまり強く吹かないでよ、種まで飛んじゃうから」


 僕が胸元の銀のボタンを撫でながらお願いすると、風はふっと穏やかになり、僕の額の汗をさらっていった。


 丸二日かけてようやく集まったのは、ずっしりと重い数キロの黒い粒――菜種だ。


 だが、本当の地獄はその翌日から始まった。


「……くっ、重い……! 全然出てこないぞ!」


 自作の土器圧搾器に菜種を詰め、太い木棒をテコの原理で押し込む。僕の全体重をかけても、圧搾器はびくともしない。


「ゆう様、焦ってはなりませんわ。細胞壁を物理的に破壊し、その奥に潜む油脂を絞り出すのです。……わたくしも、手伝います」


 リアが僕の背後に回り、僕の手の上に自分の手を重ねた。


 二人の体重が、一本の棒に集中する。じり、じり、と土器が軋む音が聞こえる。


 ……沈黙。


 そして、作業開始からどれだけ時間が経過した頃だろうか。


 ト、ン。


 土器の底に、一滴。


 夕暮れの光を反射して、それはまるで溶けた金のように美しく輝いていた。


「……出た、油だ……!」


「おめでとうございます、ゆう様。ですが、土器一瓶を満たすには、この菜種を限界まで絞り切る必要があります。……あと数日はこの繰り返しですわね」


 それから三日間、僕たちはひたすら棒を押し続けた。


 腕はパンパンに張り、手のひらには潰れては固まったマメが並ぶ。


 それでも、一滴、また一滴と黄金の液体が溜まっていくたびに、僕たちのボルテージは上がっていった。


 収穫開始から一週間。ついに、小さな土器の小瓶が、澄んだ黄金色の油で満たされた。


 その時、僕はハッと気づいて、青ざめた。


「……あ! リア、大変だ! せっかく油ができたのに、あの大発生の時に獲ったカニ、もう全部食べちゃったか、出汁用に干しちゃったよ!」


 一週間の重労働の果て、ようやく油が完成したというのに、肝心の揚げ種がない。


 僕は慌てて立ち上がり、蔓の籠を掴んだ。


「今から川に行ってくる! まだカニの群れ、残ってるはずだ!」


 そんな僕の慌てぶりを見て、リアはクスクスと、鈴を転がすような声で笑った。


「ふふ、いってらっしゃいませ、ゆう様。……でも急いでくださいね? もしカニが居なかったら、この一週間の血の滲むような苦労が、文字通り水の泡になってしまいますわよ?」


「縁起でもないこと言わないでよ! 絶対に捕まえてくるから!」


 僕は夕闇が迫る森の道を、川へと全速力で駆け出した。


 足元では水の精霊が面白がって水飛沫を上げ、頭上では風の精霊が僕の背中を押すように吹き抜ける。

 

 川辺に着くと、幸運にもまだ数匹の居残り組が岩陰に潜んでいた。


 僕は泥だらけになりながら、必死でその「黄金の具材」を追いかけ、籠へと放り込んだ。

 

「……よし、これで完璧だ!」

 

 拠点に戻ると、リアがすでに最高の状態で火を熾して待っていた。

 

「お帰りなさい、ゆう様。最高の具材、確保できましたか?」

 

「ああ、見てよ。活きのいいやつ取ってきた」

 

 火種に反応して、火トカゲの精霊が薪の上で尾を振り、一気に火力を上げる。

  

「よかった……。よし、リア! 準備はいい? あの時約束した『ナッツの衣』……去年の秋に拾って大事にとっておいた、あのクルミを使おう!」

 

「ええ、準備万端ですわ。すでに殻を剥き、すり鉢で粗めに砕いておきました。クルミの油脂分は高温で熱されることで、この菜種油にさらなる深みを与えてくれるはずです」

 

 小さな土鍋に、一週間かけて絞り出した貴重な油を注ぐ。パチパチと爆ぜる音。そこに、砕いたクルミをたっぷりと纏わせたカニを投入する。


 ジワァッ、という、この世界に来て初めて聞く「揚げる」音。


 香ばしい、暴力的なまでに食欲をそそる匂いが、拠点の空気を一変させた。クルミが油で熱され、焼きたてのパンのような、香ばしくも濃厚な香りが鼻腔を突く。


「……リア、見て。クルミの粒が狐色になって、カニの殻にしっかり張り付いてる」


 僕はたまらず、揚げたての一匹を箸で掴み、ハフハフと息を吹きかけながら口に放り込んだ。


「……ゆう様、つまみ食いはお行儀がよくありませんわよ?」


 リアが腰に手を当てて僕を窘めるが、その瞳には隠しきれない慈しみの色が滲んでいる。


「……ごめん、リア。でも、この匂いだけは……どうしても待ちきれなくてさ」


 言い訳をしながら咀嚼すれば、バリッ、と小気味よい音が響く。


 まずやってくるのは、揚げられたクルミの圧倒的な香ばしさとカリカリした食感。そして次の瞬間、中から熱々のカニの身と、とろけるようなカニ味噌の旨味が溢れ出した。


「……っ、熱い……! でも、旨い! クルミの脂質が、カニの塩気と混ざって、ものすごく濃厚だ。衣っていうか、これ自体がソースみたいだよ」


「ええ。クルミに含まれる良質な油分が、菜種油と熱で反応し、ナッツ特有の甘みを引き出していますわ。……ゆう様、この『ナッツ衣』、大正解でしたわね」


 外はカリカリと香ばしいクルミ、中はジュワッと溢れるカニの旨味。黄金の一滴一滴を積み重ねて手に入れた、贅沢すぎる夏の晩餐。


 僕たちは、自分たちの労働の結晶であるその一口を、大切に、大切に噛みしめた。


「……生きてて、よかった。この一週間の筋肉痛、全部報われた気がするよ」


「……同感ですわ、ゆう様。わたくしのメモリにも、この味を『幸福の定義』として永久保存いたしましたわ」


 初夏の夜風が、ナッツ衣の香ばしい匂いを森の奥へと運んでいく。


 それは、ただの食事ではない。僕たちがこの世界で流した汗と重ねた時間の、最高の証明だった。

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