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第88話 泉の贈物、未知の鼓動

 それに気づいたのは、朝のことだった。


 いつものように朝の水を汲みに泉へ向かう途中、不意にリアが足を止めた。 


「……あれ」 


 小さな、戸惑うような声。


 彼女の視線の先には、泉の中央にぽつんと浮かぶ小さな島があった。そこにある若木が、いつもとは明らかに違った様子を見せていたのだ。 


「……実が、なっています」


 僕も目を凝らす。


 確かに、細い枝の先に淡い光を帯びた実がいくつか揺れている。


 その色は赤とも金とも、あるいは薄い桃色ともつかない不思議な色合いで、朝の光を受けてゆっくりと呼吸するように明滅していた。


「……前から、あったっけ?」


「いいえ」


 リアは、はっきりと首を振った。


「昨日までは、影も形もありませんでした」


 つまり、この一晩のうちに実ったということだ。


 小舟も橋もないが、泉の水はどこまでも静かで、精霊の気配も穏やかだった。リアが水面に意識を向けると、水が意志を持っているかのように盛り上がり、僕たちのための足場を作ってくれる。


「……行けそうだね」


「はい」


 二人で慎重に水の上を渡り、小さな島へと降り立つ。


 間近で見る若木はまだ細かったが、その根はしっかりと大地を掴み、泉と一体になっているのが感じられた。


「……触っても、大丈夫かな」


「問題ありません。拒絶の意思は、微塵も感じられませんわ」


 リアの言葉に背中を押され、僕は一つだけ実をもぎ取った。


 手にした瞬間、掌にほのかな温かみが伝わってくる。まるで生きているかのような、確かな生命の感触だった。


 拠点に戻り、僕たちは向かい合って座った。


「……半分こ、してみる?」


「はい、喜んで」


 白銀のナイフを入れると、ほとんど抵抗なく刃が吸い込まれていった。


 断面からは瑞々しい果汁が溢れ、甘く、それでいて決してくどくない清涼な香りがふわりと広がる。

 一口、口に含んだ瞬間、僕は驚きで目を見開いた。


「……っ」


 言葉が出なかった。


 食感は林檎に似ているが、もっと柔らかく、驚くほどジューシーだ。味は桃のようでいて、後味はどこまでも澄み渡っている。


 ゴクリと飲み込むと、体の奥からじんわりと熱が広がり、力が湧いてくるのが分かった。


「……これ」


 リアもまた、目を細めてゆっくりと咀嚼している。


「……魔力と体力の、顕著な回復を確認しました。これは……素晴らしいですわ」


「やっぱり。最高のごちそうだね」


「ええ」


 リアは珍しく、少女のように少しだけ嬉しそうに微笑んだ。


 残りの実は、大切に保存することにした。


 薄くスライスして、風通しのいい場所へ並べる。乾燥したこの土地なら、すぐに良質なドライフルーツになるはずだ。


「保存性も非常に高いようですわ。これなら……」


「旅に出たとき、すごく重宝しそうだね」


「……はい」


 僕の言葉に、リアは一瞬だけ間を置いた。


 何かを考え込むような、深い眼差し。けれど、彼女はそれ以上は何も言わなかった。


 夕方。


 二人で並んで泉を眺めると、若木はもう、役目を終えたかのように普通の佇まいに戻っていた。


「……不思議な一日だったね。ここに来てまだ一年も経っていないのに」


 僕は小さく息を吐き、隣に座る彼女を見た。


「なんだかもう、ここでずっと生きてるって感じがするよ」


「……はい」


 その声は、夕暮れの光に溶けるように柔らかかった。


 この場所が、僕たち二人を受け入れてくれている。そう告げられたような、穏やかで満たされた一日だった。

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