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第82話 銀の矜持、鉄の限界


 泉のほとりに置かれた、あの雄鹿の落とし物。


 萌黄色の新緑の中で、銀色に鈍く光るその角は、手に取るとずっしりと重く、冷ややかな質感を湛えていた。


「……よし。まずは、この突起を落として、持ちやすい形に整えよう」


 僕は気合を入れ、自作したばかりの『一回り大きな鉄のナイフ』を握りしめた。


 不純物を取り除き、ノームの加護で密度を高めた、僕たちの自信作だ。ウサギの骨だって易々と断ち切るその刃を、銀の角の付け根に力強く押し当てる。


 ――ガリッ。


 嫌な感触が手首に伝わった。


 手応えがない。まるで、岩を撫でたような滑り。

 嫌な予感がして刃先を確認すると、僕は思わず絶句した。


「……嘘だろ。刃が、欠けてる……」


 あんなに苦労して研ぎ上げた鉄の刃が、まるで薄いガラスのように無残にこぼれていた。対する銀の角には、傷一つ付いていない。


「……ゆう様。無理をなさらないでください。この角、常識的な硬度を逸脱していますわ」


「……でも、これじゃ加工できないじゃないか。……こうなったら、『切断』の魔法で!」


 僕は指先に魔力を集中させた。


 目に見えない鋭利な刃が空気を震わせ、銀の角へと叩きつけられる。火花さえ散らず、ただキィィィィンと高い金属音だけが響いた。


 出力を上げる。心臓の鼓動が速まり、視界がちかちかするほどの魔力を注ぎ込んでも、角の表面を「撫でる」ことすらできなかった。


「……そんな馬鹿な。魔法ですら、傷ひとつ付かないなんて……」


 膝をつき、僕は欠けた鉄のナイフを見つめて肩を落とした。


 僕たちが積み上げてきた技術も、魔法も、あの雄鹿の「一部」にすら届かないのか。


「……ゆう様、落ち着いてください。これはおそらく、モース硬度の概念を超越していますわ」


 リアが冷静に、けれどどこか興奮した面持ちで解説を始める。


「モース硬度とは、物質の『傷つきにくさ』を示す指標です。通常の鉄は4から5程度、私たちが鍛えた鋼に近い鉄でも6前後でしょう。ですが、この角は……硬度10のダイヤモンドはおろか、この世界の物理法則にない数値を示していますわ。鉄のほうが負けて欠けるのは、物理的な必然ですの」


「……うんちくはいいよ、リア。どうすればいいんだよ、これじゃただの『硬い棒』じゃないか」


 項垂れる僕に、リアがふと思い出したように指を立てた。


「……そうだわ。ゆう様。あの泉で頂いた、『あのお方』からの贈り物ならどうでしょう?」


 リアが拠点から持ち出してきたのは、あの「正直者の童話」さながらに精霊から授かった、金と銀のナイフだった。

 

「……銀の方が、なんとなく硬そうだよね。とりあえず、こっちで試してみるよ」


 僕は半信半疑で、銀のナイフを手に取った。


 見た目はただの装飾品のようで、どこか頼りない。それを角の表面に、恐る恐る滑らせる。


 ――サクッ。


「……え?」


 抵抗がなかった。


 まるで、温めたナイフでバターを掬い取ったような、あるいは柔らかい粘土を削ったような、あまりにも軽やかな感触。


 銀のナイフが通り過ぎた後には、あんなに頑なだった角の表面が、鮮やかに削り取られていた。


 「……削れた。……いや、これ、削れたっていうレベルじゃないぞ。……これ、すごい!」


 僕は、さっきまでの落胆を忘れて夢中で刃を動かし始めた。鉄が負け、魔法すら弾かれた銀の角が、面白いように形を変えていく。


 その傍らで、リアがふらりとよろめいた。


「……ゆう様、鉄の、ナイフ……直り……まし、た……」


「えっ? リア!?」


 慌てて駆け寄り、倒れ込む彼女の体を支える。リアの顔は青ざめ、呼吸が荒い。


 彼女の手の中には、さっき無残に欠けたはずの自作の鉄ナイフがあった。刃こぼれ一つなく、以前よりも増して鋭い輝きを放っている。


「……ノームに、無理を……言いました。あの子たちへの、供物(魔力)が……少し、足りなかった……ようですわ……」


「馬鹿だな、リア。自分の限界を超えてまで……。いいから、今は休んで」


 ただ「鉄」を元通りにする。それだけのことなのに、今のリアにとっては、立っていられなくなるほどの魔力を代償にしなければならなかった。


 僕たちが必死に積み上げてきた「鉄」の技術は、この世界の原生的な力の前では、まだそれほどに脆く、維持するだけでも精一杯なのだ。


 そんな「鉄」が束になっても傷一つ付かなかったあの銀の角。


 そして、それを軽々と断ち切るこの銀のナイフ。

 腕の中でぐったりとしているリアの重みを感じながら、僕は改めて目の前の現実を見つめた。


 僕たちの持てるすべてを注ぎ込んだ「鉄」が、あまりにも遠く及ばない……そんな圧倒的な上位存在を、僕は今、この手で削っているのだ。


「……ごめん、リア。僕が無理をさせたせいで……」


「……いいえ。……あの角は、今の私たちの力では……触れることすら、許されないものでしたから。……せめて、道具だけは、万全に……」


 数時間後。


 少し落ち着いたリアに見守られながら、僕は削り終えた銀の角の「端材」を手に、ふと悩んだ。


「……ねえ、リア。このナイフの『鞘』、どうしようか。金と銀のナイフ、専用の鞘なんて作れないよ」


 何しろ、あんなに硬い角をバターのように切る刃だ。普通の木の鞘や、あり合わせの革で作ったところで、ストンと突き抜けてしまうに違いない。


「……そうですわね。……今のわたくしには、もう魔法を使う余力は……」


「無理しなくていいって。精霊の力を使わないで考えよう。とりあえず、余ってるウサギの毛皮を何重かに巻いて、仮の鞘にしてみるよ。……足に刺さらないように気をつけなきゃな」


 僕は慎重に、銀のナイフの鋭い刃を、数枚重ねただけの柔らかなウサギの毛皮へと差し込んだ。


 突き抜ける感触を覚悟して、手に力を込める。


 ――スッ。


 手応えは、あまりにも拍子抜けだった。


 鋭利な銀の刃は、柔らかな毛皮を傷つけることも、突き破ることもなく、まるでそこが自分の居場所だと知っているかのように、しなやかに収まった。


「……えっ? 貫通……してない?」


「…………? ゆう様、もう一度抜いてみてくださいませ」


 抜き放つと、そこには相変わらず、すべてを断ち切る恐ろしいほどの輝きがある。


 けれど、再び鞘(毛皮)に戻すと、刃は牙を剥くのをやめ、ただの「行儀の良いナイフ」に戻るのだ。


「……なんで? あんなに硬い角を削れるのに、なんでこの薄い皮一枚が切れないんだ?」


 僕はナイフと毛皮を交互に見つめ、首を傾げた。

 リアもまた、僕の腕に支えられたまま、不思議そうに目を細めている。


「……物理的な硬度ではなく、やはり『意志』の問題なのでしょうか。……主が収めようとすれば収まり、振るえば断つ。……この世界の『贈り物』というのは、実に理不尽で、そして……優しいのですわね」


 初夏の風が、泉のほとりを吹き抜けていく。


 膝の上の銀の角、復活した鉄のナイフ、そして謎に満ちた銀の刃。

 

 僕は、不思議な安心感と共に、再びリアを強く支え直した。


 謎は深まるばかりだけど、この場所は、僕たちが思っているよりもずっと、僕たちの「生活」を肯定してくれているのかもしれない。


「……さあ、リア。ゆっくり休もう。明日は、この角で最高の『道具』を仕上げるんだ」


「……はい。……楽しみにしておりますわ、ゆう様」

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