第69話 『重力』の理、重さの文字
新しい服は、動きやすかった。
朝露に濡れても、木屑がついても、以前ほど気にならない。それだけで、日々の作業に向かう気持ちが少しだけ軽くなる。
だけど――実際に軽くならないものもある。
切り出しておいた丸太を前に、僕は一度、深く息を吸った。
「……よし」
身体の内側に、いつもの感覚を呼び込む。
今日は身体強化の文字の威力を、少しだけ強めてみる。筋肉が締まり、地面を踏みしめる感触がはっきりとした。丸太に手をかけ、一気に力を込める。
――動く。だが。
「……っ」
一歩踏み出した瞬間、身体の奥に嫌な熱が走った。
じわりと、鈍く、確実に。
「……これ以上は、やめたほうがいいな」
動かせなくはない。けれど、このまま続ければ……あとで動けなくなる。それはもう、嫌というほど経験していた。
力を抜くと、熱はゆっくりと引いていった。代わりに残るのは、魔力が神経を擦ったような、ひりつく感覚。
その様子を、リアは黙って見ていた。
「……今のは、身体強化を強めましたわね」
リアが静かに口を開く。
「うん。でも、これ以上は無理そう。限界かな」
正直に言うと、リアは少しの間、考え込んだ。
「筋力そのものを引き上げる方法には、限界がありますわ。魔力の流れが、身体の強度に追いついていませんの」
「うん。感覚でわかるよ。力で解決しようとすると、必ず反動が来る」
「はい。ですが……『重い』という問題は、必ずしも力の問題ではありませんわ」
その言葉に、僕は顔を上げた。
「……どういう意味?」
「物体が重いのは、世界との関係性によるものですわ。力を増やすのではなく、重さそのものに干渉する方法もあるかもしれません」
一瞬、僕は言葉を失った。
「……そんなこと、できる?」
「わかりません。……検索してみますか?」
その問いかけは、いつもと同じだった。特別でも危険でもない、ただ生活を楽にするための選択肢。
「……お願い」
そう答えながら、僕はもう一度、自分の身体の感覚を確かめた。
強くすれば、壊れる。でも――別のやり方があるなら。
リアは目を伏せたまま、しばらく沈黙した。
「……該当する記述がありましたわ。『重力』重さに関与する文字です。使用頻度は低く、実用例はほとんどありませんけれど」
「その文字、見せてくれる?」
「はい」
リアがゆっくりと、地面に指先で文字を書く。
直線、曲線、意味を持つ配置。あの雷撃のときと、まったく同じ構造の言語だった。
「……これだけでいいの?」
「はい。発動条件は文字を描いた後に対象に触れる。補助の文字は『威力』と『発動』」
見覚えのある補助文字。僕は深く考えず、その文字を空中でなぞってみた。魔力を流す。
――何も起きない。
「……?」
「今のは文字が崩れていますわ。角度がわずかに違います」
二度目、失敗。三度目、途中で文字が霧散する。
「……難しいな、これ」
「はい。精度が必要ですわ」
だが、四度目。文字が最後まで形を保った。
魔力を流す。
持ち上げてみる、――ずしりと感じていた重さが変わった。
目の前の丸太が、わずかな力で、地面から浮き上がったように感じられた。
「……動いた」
「成功ですわ。今の文字は、最低魔力、文字を描くだけの魔力で、半分の重さになるようですの」
持ち上げられるほどではないけれど、明らかに軽い。文字が消えると、すぐにもとの重さに戻る。
「……これなら、身体を酷使しなくて済む。作業で使えそうだね」
「はい。ただし、精度を欠くと失敗しますわ」
「練習だね」
特別な才能はいらない。ただ文字を覚え、正確に再現すること。
僕の魔法が、また一つ増えた。それはただの、生活の工夫として。
文字を覚えてしまえば、あとは単純だった。
丸太を動かす前に、一度。棚を組むときに、もう一度。胸の前で空中へ文字を書く。
重力、威力、発動。魔力を流す。
――軽くなる。
「……うん。いい感じだ」
「安定していますわね。文字の再現精度が上がっていますわ」
リアに褒められると、少しだけ照れくさくなる。
「毎日使っているからかな」
「日常的な使用は、習熟に最適ですわ」
淡々とした言葉だったけれど、彼女の表情はどこか満足そうだった。
それから数日。重さに干渉する魔法は、完全に作業の一部になった。長くは使わない、強くも使わない。それで十分だった。
「身体強化を無理に強めなくて済みますわね。あれは、あとで動けなくなりますもの」
昼の休憩中、リアがそう言う。
「うん、助かるよ。この魔法なら、反動はほとんどないし」
魔法を使っているのに、特別なことをしている感覚がない。まるで、手になじむ道具が一つ増えただけのような。
夕方。家の影が長く伸びる頃、作業を終える。
「今日はここまでにしましょう、ゆう様」
「うん」
身体を伸ばして、深く息を吸う。疲れてはいるけれど、嫌な痛みはない。魔力にも、まだ余裕がある。
「……魔法、ずいぶん増えたね」
何気なく言うと、リアは少し考えてから答えた。
「必要になったものが、増えただけですわ」
「そっか」
必要だから、使う。使うから、慣れる。それだけのこと。
春の空気は、日に日に柔らかくなっていた。
この先もきっと同じように、暮らしの中で魔法は増えていくのだろう。
僕が大魔法使いになる日も近いのかもしれない。




