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第64話 春の鼓動、目覚める境界


 雪解け水が小川を満たす音。風に混じる、湿った土の匂い。


 朝、外に出ると、森の色が明らかに変わっていた。


「……緑、増えましたわね」


「うん」


 冬の間、沈んでいた色が、少しずつ戻ってきている。


 芽吹きはまだ控えめだ。でも、確実に始まっている。


 泉のほとりに、気配があった。鹿の群れだった。


 今は以前よりも少しだけ活発だ。水を飲み、若い草を探し、辺りを歩き回っている。


 一頭が、ふと顔を上げた。僕と、目が合った。


 じっと、こちらを見ている。


「……大丈夫そう、ですわね」


 リアが小さく言う。


「うん」


 僕はゆっくりと腰を下ろした。急な動きはしない。鹿も、それを理解しているようだった。


 数頭が、距離を保ったまま近づいてくる。冬の間の、“同じ場所で眠った関係”。それが、まだ残っている。


「……」


 リアがそっと手を伸ばす。触れはしない。ただ、そこにあると示すだけ。

 一頭の鹿が鼻を鳴らす。そして、一歩だけ近づいた。


「……春、ですわね」


「だね」


 鹿たちは、もう守られるだけの存在ではない。これから子を産み、森に散っていく。それでも、この泉は覚えている。安全な場所として。


 僕は立ち上がる。


「行こうか」


「はい」


 鹿たちはそれを合図にしたかのように、森の奥へ戻っていった。新しい季節へ。


 森は、完全に目を覚ましつつあった。


 春が進むにつれて、森はにぎやかになっていった。


 朝。目を覚ます前から、音がある。鳥の声、羽ばたき、どこかで枝が揺れる気配。冬の森にはなかったものだ。


「……にぎやかですわね」


 外に出て、リアが言う。


「うん」


 空気が軽い。風が冷たさよりも湿り気を帯びている。


 森の奥で、何かが動く。鹿だけではない。小さな獣、鳥、見たことのない影。姿ははっきり見えないけれど、“いる”と分かる。


「……前より、音が遠くまで届いていますわ」


 リアが泉のほうを見ながら言った。


「冬の間は、この場所は音も気配も、外へ漏れにくかったのですけれど」


「……今は?」


「流れていますわ」


 リアは、小川の水面を指した。雪解け水が勢いを増し、森の外へと続いている。


「水と一緒に、匂いも、音も。……気配も」


 僕は少しだけ背筋を伸ばした。


「……誰かに、気づかれるかな」


「可能性はありますわ。……ですが、今すぐというほどではありませんの」


「……そっか」


 不安はない。ただ、変化を感じる。それだけだ。

 昼。森の中で、見慣れない足跡を見つける。鹿のものではない。


「……外から来たものですわね」


「うん」


 僕は足跡の向きを見て、すぐに視線を戻す。今は、まだいい。


 夕方。鷲が、いつもより高いところを飛んでいた。獲物を落とすこともなく、ただ円を描く。


「……空も、広くなった感じがするね」


「はい」


 リアは空を見上げる。

 夜。焚き火のそばで、二人は並んで座る。森の音は、夜になっても止まらない。むしろ、増えている。


「……ねえ、リア」


「はい」


「いつか、ここを出ることになるかな」


 リアはすぐには答えなかった。少し考えてから、口を開く。


「……必要になれば。はい。……ですが、今はここが私たちの場所ですわ」


「……うん」


 それで、十分だった。

 ただ、森はもう閉じていない。音が流れ、気配が交わり、世界が静かに接続され始めている。


 春は目覚めだけでなく、出会いの季節でもある。二人はまだそれを、はっきりとは知らない。


 春が進むにつれて、森は確かににぎやかになった。


 けれど、それは誰かが近づいてきたからではない。世界そのものが、動き始めた音だった。


「……外が騒がしくなっていますわ。……でも、ここはまだ静かです」


 リアが泉を見つめながら言った。


 僕は周囲を見回す。鹿は来る。鷲も来る。けれど、それ以上はない。変化があるからこそ、変わらない場所が必要になる。森は、それを理解しているようだった。


 作業は、いつも通り続く。家を整え、薪を積み、道具を直す。魔法の練習も、日課として続ける。成功率は少しずつ上がっている。でも、焦らない。


「……来年、どうなってるかな」


 僕が何気なく言う。


「分かりませんわ。……ですが」


 一拍。


「ここに戻ってくる場所は、変わらずありますの」


「……うん」


 春は完全に訪れた。森は目覚めきっている。


 それでも、この家は外へ向かない。まだ、出る時ではない。そう、誰に言われたわけでもなく、二人は知っていた。


 作業の合間。僕は薪を積み直しながら、ふと手を止めた。


 森の音が、一定だ。風の流れ、鳥の声、獣の気配。どれも知っているはずなのに、どこかが違う。


 説明はできない。ただ、ここには電線も、飛行機雲も、遠くの車の音も、決して混じらない。どれだけ耳を澄ませても、どれだけ日が経っても。


「……」


 僕は何も言わずに作業を再開する。言葉にしたところで意味はない。少なくとも、今は。


 リアはすぐそばで、木片を整えていた。その横顔はいつもと変わらない。


 この場所が、地球かどうか。


 そんなことは、リアにとって重要ではない。ここに体があり、感触があり、暮らしがあり、そして僕がいる。それだけで、成立している。


 僕はもう一度、森を見た。


 ――地球ではない。


 でも。この場所がどこであろうと、今の暮らしが変わるわけではないからだ。


「……ゆう様?」


 リアが顔を上げる。


「手、止まっていますわ」


「あ、ごめん」


 僕は小さく笑って、また動き出す。


 この話は、まだいい。


 答えが必要になるのは、きっと、もっと先だ。

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