第50話 森の隣人、いつもの場所で
その日も、日は傾き始めていた。
泉のほとり。岩の上で僕は、今日も宙に文字を書く。
一画目。二画目。三画目……
指先を全神経に変えて、魔力の流れを捉えようとする。
……ぱちっ。
昨日よりも、ほんの少しだけ鮮やかな火花。
「……よし。今のは、感触があった」
自分でも驚くほど小さな進歩。けれど、暗闇を歩く僕にとっては、それが唯一の道標だった。
「……はい。構造の安定度が、0.02パーセント向上しましたわ」
リアが、淡々と、けれど確かな肯定をくれる。その時だった。
背後の茂みがガサリと揺れ、複数の足音が近づいてきた。
現れたのは、見慣れた鹿の群れだった。
厳しい冬の間、パタリと姿を見せなくなっていた彼ら。雪に閉ざされた数ヶ月、どこでどう過ごしていたのか、心なしか以前より少し逞しくなったようにも見える。
「……あ。やあ、みんな。無事だったんだね」
僕は思わず練習を止め、彼らに向けて手を上げた。
「……今までどこへ行ってたんだい? 雪が凄かったから、心配してたんだよ」
再会の挨拶と、ずっと抱いていた疑問を投げかける。
先頭の銀の角の雄鹿が、僕が宙に指を指したまま固まっているのをじっと見つめた。ちょうど、微かに光を放って消えようとしている僕の「魔法」の残骸を。
……フンッ
雄鹿は、これ以上ないほど露骨に鼻を鳴らした。
まるで「どこにいようが勝手だろう。それより人間、お前は何をちまちまとやってるんだ」とでも言いたげな、呆れたような響き。
「……今、笑われた?」
「……野生の直観は時として残酷ですわね」
リアが、少しだけ困ったように眉を下げた。
鹿たちは僕を一瞥すると、そのまま悠然と脚を折り、小屋の前のいつもの場所にどっかと腰を下ろし始めた。どうやら、今夜の寝床を整えに来たらしい。
彼らにとって、僕の必死の修行は、ただの「騒がしい春の羽虫」程度の扱いのようだ。
「……僕の魔法って、鹿に馬鹿にされるレベルなんだな」
ぼやくと、リアは僕の隣に屈み込み、汚れた指を自分の袖でそっと拭った。
「……彼らは、生まれながらにして世界の魔力と調和して生きています。後天的にそれを得ようとするあなたの足掻きは、彼らにとって、ひどく不器用で……そして、とても奇妙に見えるのでしょう」
リアは、僕の指を握ったまま、少しだけいたずらっぽく目を細めた。
「……ですが、わたくしは嫌いではありませんわ。……その『不器用な足掻き』こそが、あなたが人間である証なのですから」
目の前では、鹿たちが穏やかな寝息を立て始めている。
春の夜が、ゆっくりと降りてくる。
馬鹿にされたっていい。
次に彼らが目を覚ます頃には、もう少しマシな光を見せてやるつもりだ。
僕は苦笑しながら、冷え始めた指先を再び闇へと突き出した。
春の夜の静寂の中、僕は今度こそ、理想の輪郭をなぞるように一画目を描き始めた。




