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第45話 氷の鏡、銀を梳かす指先

 冬の午後は、驚くほど静かに過ぎていく。

 

 魚醤の約束をした翌日。僕は囲炉裏の傍で、リアの背後に座っていた。


 彼女の膝には、いつものように綿花の山とスピンドル。けれど今日は、その手は動いていない。

 

「……少し、乱れていますわね。アーカイブにある『適切な身嗜み』の基準値から、逸脱し始めています」

 

 リアが、自分の長い銀髪を指先で弄びながら、少しだけ困ったように呟いた。

 

「……生き延びるためのタスクを優先するあまり、自分自身の『保守(メンテナンス)』が疎かになっていたようですわ」

 

「……僕が、梳かそうか」

 

「……えっ?」

 

 リアの背中が、びくんと震える。

 

「道具ならあるよ。……ほら、この前削った、細かい櫛」

 

 僕は、桜の木を薄く削り出し、丁寧に磨き上げた自製の櫛を取り出した。


 リアはしばらく沈黙し、それから意を決したように、ゆっくりと僕の膝の間に背中を預けてきた。

 

「……では、……委託いたします。……慎重に、お願い、しますわね」

 

 耳まで真っ赤にしながら、彼女は小さな声で言った。

 

 僕は、彼女の髪にそっと手を触れた。


 ひんやりとしていて、けれど驚くほど柔らかい。

 先日、釣り糸にするために三本だけ抜き取った、あの「銀の糸」の感触。

 

 櫛を根元からゆっくりと通していく。

 さらさらと流れる銀色が、囲炉裏の火を反射して、生き物のように煌めいた。

 

「…………っ」

 

 髪を梳かすたび、リアの小さな吐息が聞こえる。

 彼女は膝の上で両手を握りしめ、じっと耐えるように目を閉じている。

 

「……痛い?」

 

「……いえ、逆ですわ。……あなたの指が触れるたびに、なんだか、回路がショートしたみたいに……熱くて。……でも、ずっとこうしていたいような、不思議な感覚なんです」

 

 見上げた彼女の顔は、かつての「完璧な人形」とは程遠い、剥き出しの感情に溢れていた。


 不安、期待、そして深い信頼。

 

 僕は、氷を溶かして作った水を入れた器を、彼女の前に置いた。


 静まった水面が、鏡のように二人の姿を映し出す。

 

「見て。……綺麗だよ、リア」

 

 水鏡に映るリアは、自分の姿を、そして彼女の髪を慈しむように触れる僕の手を、夢を見るような眼差しで見つめていた。

 

「……ええ。……以前の私なら、これを単なる『身嗜みの最適化』と定義したでしょう。……でも今は、この櫛の感触も、あなたの指の熱も、すべてが私を『私』にしてくれる大切なデータ……。いえ、思い出なのだと分かりますわ」

 

 リアは、水面に映る自分の瞳をそっと指でなぞった。

 

「……ゆう様。……いつか春が来て、世界が色づいても。……今のこの静かな時間を、私は一生、忘れませんわ」

 

 彼女はそう言って、僕の膝に深く体重を預けた。

 

 手の中にある、柔らかな銀色の重み。


 外はまだ厳しい冬だけれど、この小さな小屋の中だけは、春よりもずっと温かな時間が、糸を紡ぐように静かに流れていた。

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