第26話 泥と炎、揺れる視線
泉でのあの夜の出来事は、翌朝の光の中ではまるで淡い夢のようだった。
水面を歩いた感触も、泉から現れた女神のような精霊の声も、現実味を欠いた記憶の断片に変わっている。
けれど、僕たちのやるべきことは何一つ変わらない。むしろ、肌を刺す朝の空気の冷たさが、猶予がもう残されていないことを冷酷に告げていた。
「……ゆう様、おはようございます。今朝の最低気温は、昨日よりさらに2度ほど低下したようですわ。冬の足音は、私たちの想像よりも速い足取りです」
リアは起きてすぐ、森の温度を肌で測るように告げた。
彼女は今、脳内のデータベース……彼女自身が「地球のネットワーク」だと言っている膨大なアーカイブから、越冬に必要な知識を必死に検索しているようだった。
「……保存食を作るにしても、水を蓄えるにしても、今の私たちには『器』が足りませんわ。……木をくり抜くには時間がかかりすぎます。ゆう様、今日は粘土を探しに行きましょう」
「……粘土? 土器を作るのか。そんなことまで検索できるんだ」
「はい。地球の原始的なサバイバル手法によれば、川べりの堆積物から適切な粘土質の土を抽出し、焚き火で焼成することが可能ですわ。……強度は低いですが、無いよりは遥かに生存率が上がります」
僕たちは、まだ霜の降りていない川の下流へと向かった。
リアの指示に従い、僕はひたすら地面を掘り返した。爪の間に泥が入り込み、手のひらの豆が潰れて熱を持つ。14歳相当の僕の肉体にとって、湿った重い土を運び出す作業は、泉の神秘とは無縁の、あまりに泥臭い労働だった。
「……ゆう様、この層ですわ。鉄分を含み、適度な粘り気があります。……これなら焼けます」
リアが泥だらけの僕の横で屈み込み、土の感触を確かめる。
屈み込んだ彼女の首筋から、服の隙間を通して、白く柔らかな胸元の曲線が不意に視界に飛び込んでくる。
「……っ」
僕は思わず息を呑み、慌てて視線を逸らした。
作業の熱気で、彼女の薄い服は汗を吸い、背中や腰のラインに生々しく張り付いている。肉体を持って間もない彼女は、自分の肢体がどれほど刺激的か、まだ完全には理解していないようだった。
「……どうなさいました、ゆう様? 顔が赤いようですが……熱中症の懸念はありませんわね。それとも、粘土の重さに限界が?」
「……なんでもない! ほら、次はどうすればいいんだ。これを練ればいい?」
「ええ。ですが、焼く前に中の空気を完全に抜かなければなりません。……岩の上で、何度も叩きつけてくださいな」
僕は逃げるように粘土の塊を掴み、平らな岩へと叩きつけた。
ベチャッ、と重い音が森に響く。
雑念を払うように、腕の筋肉が悲鳴を上げるほど力を込めて土を叩き、捏ねる。
「……ゆう様、そんなに殺気立たなくても……。あ、そこ、少し空気が残っていますわよ。もっと腰を入れて……」
リアが後ろから覗き込んでくる。彼女の吐息が耳元を掠め、僕はさらに必死になって粘土を岩に叩きつけた。
「……わかってるって! ほら、これでいいだろ!」
「……ふふ、ゆう様。なんだか今日のあなたは、とても情熱的ですわね」
リアの無邪気な言葉に、僕はただ黙って、泥だらけの腕にさらに力を込めるしかなかった。
成形が終わる頃、空は茜色に染まっていた。
乾燥させた土器を並べ、大量の薪を用意し、野焼きの準備を整える。けれど、まさに火をつけようとしたその直前、僕はふと森の奥に目をやった。
「……ねえ、リア。これ、鹿たちは怒るかな。今から火を焚くし、準備だけでもう煙たいかもしれない」
「……あの子たちの寝る場所からは、だいぶ離して設営しましたけれど……。確かに、普段とは違うこの薪の山は、彼らにとって異様な光景に映るでしょうね」
心配そうな僕たちの前に、やがて森の影から一頭の大きな雄鹿が現れた。
彼は高く積み上げられた薪の山と、松明を手に火を灯そうとしている僕たちの姿を捉え、ぴたりと立ち止まった。
その澄んだ瞳が、「あれは何だ」「何をするつもりだ」と非難するように、あるいは不吉なものを警戒するように僕をじっと射抜く。
僕は思わず、雄鹿に向かって両手を広げ、必死に訴えかけた。
「……ごめん。今日だけなんだ、お願い。がまんして、あっちにいてくれないか。冬を越すために、どうしてもこれが必要なんだ」
雄鹿はしばらく僕を見つめていた。まるで僕の言葉を秤にかけているかのようだったが、やがてフンッと鼻を鳴らした。
それは「仕方ない」という譲歩か、あるいは「呆れた」という溜息か。彼はそれ以上近づくことはせず、静かにいつもの寝床へと戻り、ゆったりと横たわった。
僕は胸をなでおろし、火を灯したリアのところへ戻った。
「……なんとか理解してもらえたよ」
「お疲れ様です、ゆう様。……あの子たちにも、私たちの必死さが伝わったのかもしれませんわね。……さあ、朝まで火を絶やさないようにしましょう」
リアは僕の肩をそっと叩き、いたわるように微笑んだ。
燃え上がる炎が赤々と夜を照らす中、僕たちは寄り添うようにして土器の無事を祈った。




