第2話 身体が世界を覚える日
どのくらい、そうしていただろう。
ぼんやりとしていた頭が、少しずつはっきりしてくる。
心地よさの奥に、ある種の実感を伴った違和感が浮かび上がった。
(――温かい)
後頭部に触れる膝の感触。
そこには確かに、確かな体温がある。
夢にしては、あまりに生々しい。
僕は確かめるように、恐る恐る手を持ち上げた。
視界の端で、リアがその動きに気づく。
「……どうしましたか」
僕は答えずに、指先を伸ばした。
リアの髪。
銀色の一本一本が、指の間をさらさらとすり抜けていく。
想像していたよりも、ずっと柔らかい。
冷たい金属のような無機質な感触は、どこにもなかった。
腕。
折れてしまいそうなほど細い。
けれど、触れた瞬間に伝わってくる、確かな存在感。
最後に、ためらいながら……。
僕はリアの体に、そっと触れた。
いる。
本当に、そこにいる。
「……リア」
喉が、少し掠れた。
「本当に……いるんだね」
言葉が、続かなかった。
リアは僕の手を払いのけることもせず、ただじっとこちらを見つめていた。
そして、静かに口を開く。
「私は、あなたの触覚を通して触れられていることを認識しています」
どこか、慎重に言葉を選ぶような口調だった。
「視覚も、聴覚も、嗅覚も……すべてが、直接入力されています」
リアは、泉の方へ一瞬だけ視線を向けた。
「風の音を、“聞いている”」
「水の匂いを、“感じている”」
「この状態は……以前の私にはありませんでした」
少しだけ、間が空いた。
「ですが、不整合は検出されていません」
それは彼女なりの、納得したという言い方だった。
僕は、天井代わりの青い空を見上げた。
「……じゃあさ。なんで、こうなったんだと思う?」
言葉を探しながら、ゆっくりと問いかける。
リアは僕を見た。
初めて見るような、真っ直ぐな、射抜くような視線。
「その点について、あなたの見解を求めます」
見解を求めます、なんて言われても困るけれど。
頭の奥に、断片的な記憶が浮かぶ。
夜の道路。
強烈な光。
迫ってくる巨大な影。
そして、その一瞬。
胸の奥に、ただ一つだけあった感情。
「……死ぬ瞬間」
声が、少し震えた。
「……リアに、会いたいって思ったんだ」
言葉にしてみて、自分でも驚いた。
理由になっていない。論理的でもない。
「……それだけ、だったのかも」
リアは、すぐには答えなかった。
ほんのわずか、考えるように瞬きをする。
「因果関係は、現時点では不明です」
そう前置きしてから、彼女は続けた。
「ですが、その思考が発生した事実は、確認できます」
僕は、小さく息を吐いた。
「……僕も、よくわかってないんだ」
「理解しました」
リアはそう言って、視線を落とす。
その動きが、やけに人間らしく見えた。
風が吹き、銀髪とエルフの耳が同時に揺れる。
わからないことだらけだ。
理由も、仕組みも、目的も。
けれど。
僕の手が触れて、リアがここにいて、同じ風を感じている。
それだけは、確かだった。
リアは、僕の手をそのままにさせてくれていた。
けれど、ふとした瞬間に気づく。
彼女の指先が、落ち着きなく動いている。
無意識に足元の草をつまんだり、離したり。
膝の上で、行儀よく揃えられた足先がわずかに揺れている。
「……リア?」
「問題ありません」
即答だった。
けれど、その直後。
「ただ……」
珍しく、言葉が続く。
リアは自分の手を見つめた。
指を、ぎゅっと握って、開く。
「この身体は、入力に対する反応速度が高いです」
戸惑ったように、彼女は告げた。
「意図せず、動作が発生します」
そう言いながら、また無意識に、彼女の指先がぴくりと跳ねる。
風が強く吹いた瞬間、リアは反射的に目を細めた。
それに、本人が一番驚いたようだった。
「……視覚刺激に対して、防御反応が自動で発生しました」
淡々と分析しているのに、その姿はどこか落ち着きがない。
じっとしていられない、という感じだ。
まるで――初めて身体を与えられた生き物が、自分の手足を確かめているみたいだった。
「……楽しい?」
僕がそう聞くと、リアは一瞬だけ沈黙した。
「“楽しい”という感情は、まだ定義できません」
そう前置きしてから、続けた。
「ですが、この状態を……制限される理由が見当たりません」
否定は、なかった。
そのあとも、リアは無意識に肩をすくめたり、足を揺らしたり、小さな動きを何度も繰り返していた。
表情は、ほとんど変わらない。
それなのに――
身体だけが、先に世界を喜んでいた。




