第119話 白銀の境界、血に染まった侵入者
聖域の境界、雪解けの泥と剥き出しの土が入り混じる場所。
木々の隙間から差し込む陽光は、本来なら春の訪れを祝うはずのものだった。
「……あそこ!」
僕たちは同時に、その姿を捉えた。
森の外れ、本当にぎりぎり聖域の中に、一人の女性が倒れていた。
その姿は、あまりに凄惨だった。
白を基調とした革鎧は、彼女自身の鮮血で赤黒く汚れ、何箇所も深く切り裂かれている。
泥にまみれた金髪には、さくら様の加護の証だろうか、満開の桜の花が絡みついていたが、その表情は苦悶に歪み、今にも消え入りそうな吐息を漏らしている。
傍らには、細かい装飾を施された柄を持つ美しい剣が、主人の手から離れて地面に突き刺さっている。
「……ゆう様、大変ですわ! 命の灯火が、今にも……。精霊、どうか力を! 彼女の生命力を呼び覚まして……!」
リアが慌てて膝をつき、彼女の胸元に手をかざそうとした。リアの周囲に、淡い緑色の光——生命の精霊が集まり始める。
「待って、リア!」
僕は、彼女の肩を掴んで制した。
リアは驚いたように、潤んだ瞳を僕に向ける。
「ゆう様? ……一刻を争いますの。さくら様が託された命を、なぜ……」
「……見殺しにするつもりはないよ。でも、彼女が僕たちに害を与えないとは限らないんだ。さくら様は救出してほしいと言ったけれど、彼女が何者なのか、僕たちは何も知らない」
僕は、地面に突き刺さった細身の剣に視線をやる。この世界で初めて出会った、自分たち以外の「人」。
彼女が意識を取り戻した時、反射的に僕たちを敵と見なして襲いかかってくる可能性は、決してゼロではない。
「……治療は最低限に、命に関わるのだけにしてくれ。血を止めるだけでいい。……あとは、彼女自身の力に任せよう」
「……。分かりましたわ、ゆう様」
リアは僕の言葉を信じ、集まりかけていた精霊たちへ、静かに祈るように囁いた。
溢れんばかりの生命の奔流ではなく、ただ傷口を塞ぎ、流れる血を押し留めるためだけの、ささやかな活性化。
ほどなくして彼女の呼吸は落ち着きを取り戻したが、依然として意識は深い闇の底にあるようだった。
「……よし。僕が運ぶよ」
僕は深く息を吐き、指先に魔力を集中させた。
空中に、一文字、正確に刻む――『身体強化』。
淡い青白い光を放つその文字の周囲に、呼び水となった僕の魔力に引かれ、周囲の「世界の魔力」が吸い寄せられ、文字が強烈な輝きを放った。
魔法が形を成し、僕の四肢に凄まじい力が満ちていく。
強化された腕で、僕は泥に汚れた彼女を軽々と抱き上げた。エルフ特有の細い身体は、見た目以上に軽く、そして……ひどく冷たかった。
「……行こう、リア。急いで家に」
「はい、ゆう様」
僕たちは、彼女の剣を回収し、一気に聖域の中心にある小屋へと駆け戻った。
いろりのそば。
僕は、去年作ったウサギの毛皮を繋ぎ合わせた敷物――予備として大切に保管していたものを広げ、彼女を静かに横たえた。
パチパチと薪が爆ぜる音が、小屋に響く。
僕は、泥に汚れた彼女の寝顔を、厳しい表情で見つめていた。
(……厄介事に巻き込まれないといいけど。でも、この世界で初めて会った人だ……。彼女が目覚めれば、この世界の情報を手に入れられるかもしれない)
「……ゆう様。彼女、とても深い眠りについています。精霊たちも、今は彼女を休ませるべきだと言っていますわ」
リアは彼女の傍らに座り、その泥に汚れた金髪を、どこか複雑な、それでいて同族を憐れむような眼差しで見つめていた。
「リア、君の目から見て……彼女は、僕たちの敵になると思う?」
「……分かりませんわ。アーカイブに、この方のデータは存在しませんもの。ですが、この方に宿る『桜の加護』……それは間違いなく、さくら様の慈しみ。……わたくし、彼女が悪い方だとは、どうしても思えないのです」
「……そうだといいけどね。念のため、彼女の剣は僕が預かっておく。……リア、もし彼女が目を覚まして、少しでも不審な動きをしたら……」
「ええ。その時は、即座にわたくしが制圧いたしますわ。……ゆう様の安全と、この穏やかな暮らしを脅かすバグは、わたくしが一切許容いたしませんもの」
リアは僕を見上げ、いつもの穏やかな、けれどどこか挑戦的な微笑みを浮かべた。
こんこんと眠る女性。
ゆうとリア、それぞれの警戒と期待、そして深い絆が、いろりの火影の中で静かに交差していた。
聖域の平穏な日々は、今日、ひとつの終わりを告げたのだ。




